ただいま、アートプラザビデオルームで「ピアノの詩人ショパン展」が開催されています。
壁一面にショパンの生涯や作品についての美しいパネルが展示されています。このパネルは、東京の民音音楽博物館で今年の1月から7月まで開催された「ショパン展」で展示されたもので、同博物館のご厚意によりお借りしたものです。
パネルの一部を紹介しましょう。
パネル「ショパンの生涯」
ショパンは1810年、ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれます。子供のころからピアノ演奏や作曲に才能を示し、ワルシャワ音楽院で音楽を学びます。卒業後ワルシャワを離れますが、祖国で反ロシア暴動が失敗に終わったため、芸術家の都であるパリに向います。パリでは様々な芸術家と交流し、独創的な演奏と作品により名声を博します。特にジョルジュ・サンドとの出会いは、ショパンの創作意欲を高め、多くの名曲を生み出すのですね。
パネル「ショパン作品リスト」、「ショパンが作曲した主な楽曲形式」
ショパンは約230曲作曲したと言われていますが、そのほとんどはピアノ独奏曲です。室内楽曲、ピアノ協奏曲、歌曲も一部作っています。
ショパンは新しいピアノ音楽の形式を確立しました。ポーランドの民俗舞踊に基づく「マズルカ」「ポロネーズ」、また、夜の情景を思い起こさせる「夜想曲(ノクターン)」、物語を語るような「バラード」、即興的な「バラード」などがあります。
パネル「ショパンの愛した女性」
ショパンが生涯に愛した女性は4人います。まず初恋のコンスタンチア・グアドフスカはワルシャワ音楽院の同級生。繊細なショパンは思いをなかなか伝えられなかったようです。次が、婚約までしながら破談となってしまったマリア・ヴォジンスカ。ショパンは真剣に結婚を考えていたようで、悲しみは深いものでした。
ショパンのよき理解者であった作家のジョルジュ・サンドとの同棲生活は余りにも有名ですね。サンドはショパン好みの女性ではなかったようで、初対面の印象を「なんて感じの悪い女だろう。あれでも本当に女なのだろうか。」と書いています。その後、交際の中で深く愛し合うようになります。サンドの愛と支えにより数々の名曲が生み出されたのですね。男勝りの女性作家と病弱な天才作曲家のユニークな組み合わせは当時の社会では話題になりました。
最後にピアノの弟子でソプラノ歌手のデルフィーナ・ポトツカ。絶世の美女だったとか。近年ショパンがデルフィーナにあてた恋文が発見されたと発表されましたが、偽作だったようです。「謎の恋人」です。
パネルを見ながら、ショパンは4人の女性たちのどこに惹かれたのか考えてみるのも楽しいでしょう。
ジョルジュ・サンド(1804-1876) デルフィーナ・ポトツカ(1807-1877)
パネル「ショパンの肖像のパネル」
さまざまな画家が描いた29点の肖像画がパネルとなっています。若いころから晩年までショパンの肖像の変化をたどるのも面白いでしょう。また画家によりショパンをどのようにとらえているのか比較するのも面白いでしょう。今まで見たことがないショパンに出会えるかもしれません。なお、ショパンは170センチメートルで体重40キロという「超やせ型」でしたが、服装は最高級のブランド物で身を固め、貴婦人方の人気の的であったとか。
1849年死の数か月前の写真
パネル「レクイエム」
ショパンはパリで39歳の生涯を閉じました。死因は結核とされています。遺体はパリのペール・ラシューズ墓地に埋葬されました。彼がポーランドを出るときに持ってきた土がふりかけられました。心臓はショパンの遺言で、姉によりワルシャワに持ち帰られました。ようやく故郷に帰れたのですね。この心臓は、聖十字架教会に保存されました。この教会は第2次世界大戦でドイツ軍に破壊されたのですが、心臓は奇跡的に無事だったのですね。なお、2008年には科学者らが死因を解明するため、DNA検査を求めたのですが許可されなかったというニュースがありました。
(c)Mathiasrex, Maciej Szczepańczyk
ワルシャワ・聖十字架教会の柱(ショパンの心臓が埋められている)
パネル「ショパンのピアノ」
ショパンが生涯愛用したピアノは「プレイエル」(1839年製)です。現在はパリのプレイエルコレクションにあります。リストも「ショパンは銀色のように美しく、いくらかベールのかかったような音の響きと非常に弾きやすいタッチの故にプレイエルを好んだ」と言っています。
また、ショパンはエラール社のピアノもたびたび弾いており、最後に弾いたピアノもエラール社のものです。
次回は、「ショパンの左手」と「自筆譜」などを紹介します。
ショパン展は12月22日(水)まで。お逃しなく!
(A.M)