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追悼 巨匠サヴァリッシュ サイン付き自伝など展示しています

2013年04月08日

 ドイツの巨匠ウォルフガング・サヴァリッシュ氏が今年2月22日に亡くなられました。氏の偉業を偲び、氏の関連本や写真などをアートプラザで展示しています。
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 サヴァリッシュ関係図書として、アートライブラリーには次の2冊が所蔵されています。
・『音楽と我が人生』(ウォルフガング・サヴァリッシュ著、真鍋圭子訳 第三文明社
・『サヴァリッシュの肖像』(ハンスペーター・クレルマン著、前田明雄訳 日本放送出版協会
前者は自伝ですが、表紙を開けてびっくり。サヴァリッシュ氏のサインとともに「NOVEMBER 1992」という年月が書いてありました。更に、あとがきには、訳者である真鍋圭子氏(現サントリーホール エグゼクティブ・プロデューサー)の署名もありました。通常、図書館の蔵書にはサインはしないのですが、これはきっと何か経緯があるはずだと思い、調べてみました。


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サイン入り自伝『音楽と我が人生』

 

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「バイエルン国立歌劇場1993/1994年鑑」(左)と『音楽と我が人生』の表紙(右)


 1992年11月はサヴァリッシュ氏がバイエルン国立歌劇場とともに、愛知県芸術劇場での杮落とし公演のため滞在していた時です。オペラ準備を担当していた田中民雄氏(当時愛知県文化振興事業団課長補佐)に伺ったところ、その経緯がわかりました。
 田中さんにその時の経緯やエピソードなどを寄稿いただきましたので、ご紹介いたします。
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「名総監督サヴァリッシュ氏と愛知県芸術劇場」
 1992年11月、オープンした愛知県芸術劇場のこけら落とし公演は、バイエルン国立歌劇場によるリヒャルト・シュトラウスの『影のない女』で幕を開けた。
 その時の総監督が、ヴォルフガング・サヴァリッシュ氏であった。あれから20年、そのサヴァリッシュ氏が今年2月22日ドイツ・グラッサウの自宅で亡くなった。89歳であった。
「このホールは、すばらしいコンサートホールになるでしょう。でも、もう少し客席を長くすれば、もっとすばらしいホールになると思うが、伸ばせませんか?」。これが1991年9月に建設中のコンサートホールを視察したサヴァリッシュ氏の第一声であった。彼は、ワインヤード型のホールよりも、ヨーロッパ伝統のシューボックス型のホールの方がお好きなようだった。
 視察を終えたあとの記者会見で、サヴァリッシュ氏は、「来年この劇場で本当のプレミエ(初演)、オペラの歴史に残る新しい出来事を体験するでしょう」と予告した。さらに彼は、「オープニングで上演する『影のない女』は、日本とドイツの両国にまたがる文化のかけ橋となるであろう」と語った。この言葉は、当日のプログラムの彼のあいさつにも書かれている。
 当初、世界初演はバイエルン国立歌劇場で行われることになっていた。ところが、バイエルン国立歌劇場の舞台機構にアクシデントが生じ、改修する必要が生じたため、急きょ世界初演を新しくオープンする愛知県芸術劇場で行った。思わぬアクシデントのおかげで、新設の愛知県芸術劇場が世界初演の栄誉を歴史に残した。
愛知での世界初演を、総監督のサヴァリッシュ氏は決断した。愛知に決めた理由は、計画どおり劇場が完成することを事前の視察で確かめていたこと。そして、両劇場の関係者の間に強い信頼関係ができていたためである。
 サヴァリッシュ氏とドイツ留学経験のある愛知芸術文化センターの飯島宗一総長とは、初対面の時から、お互いをdu(君)で呼び合う親しい間がらであった。一方、両方の技術スタッフたちも、信頼と仲間意識が十分にできていた。これには、この劇場の建設委員で舞台監督の小栗哲家さんの存在が大きかった。小栗さんは、愛知県半田市出身で、優れた舞台監督として海外で広く知られており、バイエルン側の技術スタッフは、小栗さんに全幅の信頼を寄せていた。
 サヴァリッシュ氏は、事前に劇場を視察した時に、劇場の総監督の仕事として、約400人に及ぶソリスト、オーケストラ、コーラス、そしてスタッフが宿泊するホテルを下見し、ソリストたちの部屋割りも自分で決めていった。
 公演本番の2週間前、オーケストラだけの練習が大ホールのオーケストラピットで始まった。この日は、まだサヴァリッシュ氏が指揮する予定の日ではなく、リハーサルは練習指揮者が進めていた。
 そこへ、客席のうしろ扉からサヴァリッシュ氏がホールに入ってきて練習を見ていた。しばらくするとサヴァリッシュ氏は、背広を脱ぎ、白いワイシャツ姿でオーケストラピットに降りてゆき、指揮をし始めた。するとオーケストラの音は一変し、リヒャルト・シュトラウスの重厚なサウンドが大ホールに響き渡った。オーケストラから流れ出てくる音は、CDで聴いていた音とは全く異なり、ホールで聴く音は全く別世界の音だった。
 結局、彼は『影のない女』の第1幕を、途中止めることもなく通してしまった。本番そのものの演奏だった。時間にして約30分。客席で聴いていた私は、思わず「ブラボー」と、小さな声で叫んでしまった。
 サヴァリッシュ氏は、演奏旅行にメヒトヒルト夫人を同行してきた。夫人は、母親のように温和な性格のすてきな女性で、いつも夫のそばにいた。サヴァリッシュ氏は、いつも「ごめん、ごめん」と言いながら夫人に優しく語りかけ、夫人は、毎日ホテル近くのデパートの地下売場へ出かけ、夫のためにパンを買い求めていた。
11月8日から始まった世界初演の公演は、国内外からやってきた多くの観客に深い感動を与えた。公演は、国内外の新聞や雑誌、テレビなどで報道されるとともに、高い評価をもって祝福された。
 その後、『影のない女』は、高い評価を証明するように、ミュンヘン国立歌劇場でレパートリーとして、たびたび上演されている。
 文化情報センターのアートライブラリーに、サヴァリッシュ氏の著書『音楽と我が人生』がある。サヴァリッシュ氏に、来館の記念にサインをお願いしたところ、彼はすごいスピードで見事なサインをした。同行していた翻訳者である真鍋圭子さんも、本の最後のページにサインをして来館の記念とした。
 我が家に、セラミックスで作ったバイオリンの形をした白い風鈴が掛っている。同じ風鈴をサヴァリッシュ氏にプレゼントした。彼は、風鈴が気にいったらしく「この風鈴を掛ける場所をもう決めましたよ。」と、嬉しそうに鳴らしていたのを思い出す。
 サヴァリッシュ氏が逝ってしまった今、「日本とドイツにまたがる文化のかけ橋」を渡って、素晴らしいオペラ作品をドイツに届けることが、サヴァリッシュ氏に対する恩返しかもしれない。
今は、ただご冥福をお祈りするのみである。
2013年4月1日
日進市副市長 田中民雄
愛知県文化振興事業団課長補佐)
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 日本初のオペラハウスである愛知県芸術劇場オープン当時の熱気や、この公演にかけるサヴァリッシュやスタッフの熱い思いが生き生きと伝わってきます。貴重な証言ですね。

 田中さん提供の写真も展示しています。
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サヴァリッシュ(右から4人目)と先代猿之助(右から3人目) 東急ホテルでの歓迎パーティにて
 
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サヴァリッシュ夫妻(後列右から2,3人目)を囲んで記念撮影(ナゴヤキャッスルにて)

 

 また、サヴァリッシュのCD、映像作品もアートライブラリーに多く所蔵していますので、こちらもぜひご利用ください。
 

 (A.M)