境界をこえて —20世紀の美術—
パウル・クレーの《蛾の踊り》——青色の色調が重なり合って格子模様が生まれ、外側から上下の二つの中心に向かって紺色から肌色へと段階的に色調を変えながら、画面を、そして空間を満たしていく。フリーハンドで描かれたこの格子模様はゆらゆらと揺れながら、透明な青色の空間の奥へと私たちをいざなう。そこで出会うのは、蛾の衣をまとい宙に羽ばたく女性。柔らかな光の中に浮かび上がる彼女の反り返った胸には矢が突かれている。しかしその表情に苦しみはなく、むしろ恍惚とした雰囲気すら漂わせている。
この詩情あふれる作品は、愛知県美術館のコレクションの中でも特に人気の高い作品であり、今展のポスターやチラシの表を飾っています。この作品を、「境界」というキーワードで見つめ直したとき、どんな新しい発見があるのでしょうか。
この作品をクレーが制作したのは1923年のことですが、この前後5年あまりの間に、クレーは《蛾の踊り》にも用いられている「油彩転写素描」という技法で240余点もの作品を制作しています。それまでは素描を得意としていたクレーですが、美術商との契約の中で、多色の水彩画のほうが単色の素描に比べ、価格を2、3倍高く設定されました。これは多彩色の作品のほうが顧客の購買心を刺激すると美術商が判断したからですが、クレーもまた自分の生活と制作活動の行く末が美術商を通じた作品売却の好不況にかかっていることを承知しており、ちょうどその頃、素描に直接彩色する水彩画ではなく、「油彩転写素描」と水彩の併用技法によって一本の活路を見出したのです。
この「油彩転写素描」という技法はクレーが独自に生み出したものです。これは、まず黒い油絵具を塗った紙を裏返し、白紙の紙の上に乗せ、それら二枚の上に原画が素描された紙を乗せ、その描線を尖筆でなぞると、一番下に敷かれた紙には原画と同じ画像が複製されるというものです。しかし、出来上がった画像は複製でありながら、全く性質を異にした新たな表現力を獲得します。複製の過程で、尖筆に加わる圧力や、線をなぞる手の動きの速さによって変化が生じ、また尖筆を握る手が紙面と擦れてつく黒い汚れによって、繊細なニュアンスが生まれます。クレーはこの「転写」という過程を経ることによって、素描の輪郭線の硬さを緩和し、線描を表情豊かなものへと変えていったのです。さらにこの転写素描に水彩絵具を併用し、色を重ねながらグラデーションをつけることで、よりドラマティックな演出が加えられます。
さて、この作品は油彩画か、素描か、それとも版画なのでしょうか。つまりこの作品がこえた「境界」とはこのことなのです。通常、作品は油彩画、水彩画、版画、素描といったジャンルでくくられ、そのジャンルの中で制作が行われます。しかしクレーはそれぞれのジャンルの間にある垣根をこえ、様々な技法を組み合わせ、どのジャンルにも属さない新たな技法を獲得し、独自の表現の可能性を切り開いたのです。この「油彩転写素描」の技法は、《蛾の踊り》の中でまさにダンスのような身体運動を感じさせる表現を生み出しています。画面左半分に見られる、硬いものを用いて扇状に擦りだしたような黒い擦れの部分は、まるで蛾の羽ばたきの痕跡を感じさせます。こうして柔らかく朧げな輪郭線とこの黒く粗い擦れに演出され、時間の流れの中で展開される「羽ばたく」という一連の運動が視覚化されるのです。
20世紀を代表する画家の一人であるクレーは、ジャンルの境界をこえ、技法に関する実験を行いながら、豊かな表現を獲得していきました。光に弱い紙の作品である《蛾の踊り》は、所蔵作品展でも頻繁に展示することができず、鑑賞できる機会はあまり多くありません。今回の「境界を越えて―20世紀美術―」展で、クレーがこえようと挑んだジャンルという既存の区分け、そしてその垣根をこえた先にあった自由な芸術の境域を感じながら、この作品を鑑賞していただければと思います。さらに本展では、外国との盛んな交流、多様な素材やものの組み合わせなど、様々な「境界」を自由に横断する美術の実験によって、表現の領域を大きく広げた20世紀の美術の魅力を紹介します。
(M M)
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