愛知県文化振興事業団プロデュース
第3回AAF戯曲賞優秀賞受賞作

作/小里 清  演出/神谷尚吾(劇団B級遊撃隊)

ア ナ ト ミ ア

2003年12月12日(金)・13日(土)・14日(日)
愛知県芸術劇場小ホール


 メメント・モリ——このいささかロマンチックなひびきの言葉が、 「死を想え」という意味だと知ったときは、イメージのギャップにちょっと驚いた。 だからといって、死を想い続けたわけではない。死を想うことはつらい。 できれば忘れて暮らしていたい。
 第3回AAF戯曲賞を受賞した『アナトミア』の発想のもとに、この言葉があったと、 作者の小里清はいう。しかし、そう呼びかけようにも、現代では<死>そのものが見えにくく なっているのではないか。死も死体も、排斥され、隠されているのではないか。 だからこそ、メメント・モリといいたい。この作品は、そういうテーマがはっきりあって 作られた芝居である。
 そのために小里は、医学部の解剖実習室を用意した。つまり、目の前に死体が置かれる 場所を舞台とし、そこで生と死を考えようとしたのだ。芝居はまず、一つの解剖台の上に、 女が横たわっているところから始まる。どうやら寝ているらしい。そこに、解剖学教室の助手 や技官、大学院生らが、近く始まる学部生の実習のため、何体かの死体を運び込む。 彼女を学部生と勘違いした彼らは、怪しみもしない。そして実習が始まって何日か後、一つの 死体が消える——。このナゾを通奏低音に、いかにもありふれた解剖学教室の 日常としてドラマは進行するのだが、その中に、大学病院の体質や、医師と研究者、地域と 解剖学教室等々、実にさまざまな問題が盛り込まれる。
 さり気ない会話によるそれらの多彩な情報にまぎらせて、いくつかの生と死をめぐる 問題が浮かび上がる。死体はヒトかモノか。脳死状態にある女(この教室の大学院生の姉) の出産。そして、堕胎の罪と罰。生身の女と死体という冒頭の視覚的コントラストに始まり、 このように生と死のさまざまな局面がリフレーンされ、観客に投げかけられるのだ。
 しかし、こうした硬質のテーマをふくんだ作品にもかかわらず、実際の舞台から受ける 衝撃は少ない。それは、神谷尚吾の演出によって舞台全体が軽やかに表現されたから、という ことではない。神谷は、オーディションで選ばれた出演者たちの個性を生かしつつ遊技的に 見せながら、それらの情報と問いを確実にピックアップしていった。 そうした中で、この実習室をとりまく何かしら不穏で不安定な空気も、確実に漂わせていたと 思う。脚本はいきいきと舞台化された。けれども、そこから<死を想う>ことにならなかった のだ。それは、現代における生と死の問題の羅列に終わったからではないか。
 解剖学者の養老孟司は、脳の産物である人工物に囲まれて暮らしている現代人は、 生や死、身体や死体といった<自然>を理解できなくなっていると、くり返し指摘する。 そしてこの作品は、そのことの解説書のような印象を受けるのだ。 生と死の境界は実はとてもあいまいなこと。 解剖学教室が、大学病院からも地域住民からも、まるで汚物ででもあるかのように扱われ、 死や死体は隠蔽されようとしていること。 それによって死や死体が実感しがたく、倫理観もうすれていること。そんな状況はたしかに あぶりだされた。
 しかし、そこからもう一歩進んで、そのように死を想えない現代人は本質的に何を 失っているのか。そして、作者は死をどう想っているのか。それがなかったように思う。
 死体がさらされればいいのか? 実はいま私たちは、戦争や殺人など多くの死に 囲まれて生きている。隠蔽の力学が働く一方で、死の情報はあふれているのだ。 だから問題は、見えにくいではなく、どう見ようとするか、いかにそのことを考えるか だろう。状況を問うのではなく、問題そのものを問うこと。この作品はそこが弱かった。 だから、死体が消えたという魅力的なナゾも、生きなかったのだと思う。 その深まりがあれば、消えた死体が天上から我々を見下ろしているような、ステキな飛躍の 瞬間も生まれたと思うのだが。

安住 恭子(演劇評論家)