現代音楽家シリーズ第10回 パフォーマンス&レクチャー
ボブ・オスタータグ(作曲家)&ピエール・エベール(映像作家)

リヴィング・シネマ

『科学とガラクタのあいだで』
2003年11月11日(火)愛知県芸術劇場小ホール

 「現代音楽家シリーズ」は、既成のジャンルにとらわれず新しい音の芸術の創造を目指してパワフルな活動をしている音楽家達の声をレクチャー形式で紹介している。10回目となる今回は、サンフランシスコ在住の作曲家ボブ・オスタータグとカナダ/ケベック州在住の映像作家ピエール・エベールのコラボレーション"リヴィング・シネマ"を取り上げた。

スリリングなコラボレーション―――リヴィング・シネマ
 映像作家と音楽家のコラボレーション、しかも即興的と聞くと、ぼくはある種の"構え"のようなものを持ってしまう。それはこの種のコラボレーションが頻繁と言っていいくらいに行われているにも関わらず、本当の意味でコラボレーションとして成功している例が極めて少ないからだ。作家同士は「解釈」という媒介項で距離を持って結びつき、互いに干渉せず、相手の制作プロセスを横目で意識しながらも結局は自己の世界を構築していく。それが同じ時空を共有して即興的に行われていれば、何となくコラボレーションしたことになってしまう。
 しかし、本当のコラボレーションは必然的に相手の領域まで介入せざるを得ない、異なる表現方法を用いるアーティスト同士であればなおさらそこには共通言語がなければならず、お題目ではない具体的なシステムの共有が必要なのだ、とぼくは常々思っている。言うのは簡単だがこれが極めて難しい。ボブ・オスタータグとピエール・エベールの"リヴィング・シネマ"はそれを見事に成功させた希有な例だ。しかも圧倒的なパフォーマンスの力と、即興的でありながら練り上げられた構成力で観客を引き込む力強い作品である。
 彼らは長年の関係の中でいつも二人の共同作業の「必然性」を模索して来た。最初は即興的ドローイングと即興演奏の並列、次にはガラス板がカンバスであると同時に音の振動板でもあるという場の共有。そしていまコンピュータ(Mac+Max/MSP/Jitter)による先端的なリアルタイム映像・音響処理を批判的に導入することで、彼らは新たな共通言語と共有システムを獲得した。
 二人はテーブルに並んで座る。そこには2台のラップトップ・コンピュータが置かれ、さまさまざなガラクタが準備されている。彼らの手元はビデオカメラで撮影されており、そのライブ映像がコンピュータを経由して背後のスクリーンに投影される。ピエールが筆を取り描き始める、人の姿だ。描いては消し、描いては消す。するとひとコマひとコマがその場でコンピュータにキャプチャされ自動的にアニメーションが生成され、踊っているように見えてくる。次に使い旧しのドル紙幣がばらまかれ、やはり少しずつ位置をずらせながらコマ録りされて行く。これらが次々とライブ映像に重ね合わされる。
 一方、ボブはひたすらコーラの缶を空けては一口飲みバケツに捨て缶を踏みつぶす。この一連の音がコンピュータにリアルタイムでサンプリングされ、短いループから成る無数の音の粒となり次第に重厚な音響空間を作って行く。おもちゃの飛行機でジェットエンジンの轟音が合成されたかと思うと、飛行機はピエールに渡されアニメーションの素材になる。ボブはポテトチップスの袋を叩き潰し行儀悪く食べ散らかす…滑稽なパフォーマンスが展開され、自動生成アニメーションとライブ映像の合成、サンプリングから生成される音響がどんどん重層化されていく。
 しかし、ピエールがNYの世界貿易センタービルらしき2棟の高層ビルを描いた瞬間、それまでの映像と音の意味が一変する。踊っているように見えた人間のアニメーションはビルから落下する犠牲者であり、ドル紙幣の散乱も、飛行機のオモチャも、袋を叩き割る破裂音の意味も…。
 この作品はもともとホームレスの人たちの生活をテーマにした作品だったそうだ。しかし上演の直前に9・11のテロが起こり、二人の意図とは無関係に観客は作品からテロに繋がるイメージを読み取った。これは作家として抗しがたい事実で、次第に二人はこのような観客の参与に対して抵抗せず作品を開いて行く方向を選ぶ。そして今回の公演でハッキリと9・11のテロから現在に至る世界情勢を明示的に作品の中に取り込んだ。"リヴィング・シネマ"というコラボレーション・スタイルは、その場でリアルタイムに生きたシネマを作り上げるという意味で"リヴィング"だが、二人と観客双方が共に生きているその時々の「いま」が、作品の中に写り込むという意味でも"リヴィング"なのである。
 仕掛けは本人達も言うとおりシンプルである。映像はコマ録りアニメーション、音楽はサンプリング素材の極小ループを重ねる手法である。しかし、次々と重層的に堆積されて行く「過去」が生々しい「現在」にオーバーラップしていくタイミングの絶妙さに息を呑む。これは、極めて高度な構成力と長年に渡る呼吸の一致、そしてテーマについての深い思索と議論があるからに他ならない。そして、スクリーンに投影されていない彼らの生身のパフォーマンスが、さらに複雑な意味を生み出す。コンピュータによるリアルタイム映像・音響処理という共通環境が、必然性と説得力を持ってパフォーマンスに溶け込んでいる真のコラボレーション。実にスリリングで印象深い作品であった。
 

佐近田 展康(サウンド・メディア・アーティスト)