愛と感動の画家 中村 彝の全貌

 明治の終わり、日本の美術界に彗星のように現われ、輝かしい作品を残しながら、大正という時代を駆け抜けて、わずか37歳でその生涯を閉じた画家・中村 彝(1887−1924)の全貌を紹介する展覧会を開催いたします。
 明治20年(1887)、旧水戸藩士の子として、茨城県水戸市に生を受けた中村 彝は、はじめ軍人の道を目指しますが、名古屋陸軍地方幼年学校在学中に胸部疾患に冒され、軍人を断念。その後、療養につとめる傍ら、幼い頃から好きだった絵の道を志し、白馬会や太平洋画会研究所で修業を積みました。この時代、中原悌二郎や鶴田吾郎など多くの友人を得て、やがて「個性の時代」と呼ばれる大正期を代表する画家として活躍しました。
 中村 彝の画家としてのデビューは、明治42年(1909)の第7回太平洋画会展で《自画像》の奨励賞、ついで翌年の第3回文展への出品作《巌》の褒賞を受賞したことで知られます。その後、彼は当時の芸術支援者であった新宿中村屋の娘相馬俊子との恋愛の破局のなか、宿病である結核に苦しめられながらも、自らの画業を推し進め、大正5年(1916)の第10回文展で特選を受賞した《田中館博士の肖像》や、大正9年(1920)の第2回帝展で絶賛を博した《エロシェンコ氏の像》などの傑作を次々に発表し、官展で最も注目される作家となりました。しかし、大正13年(1924)の暮れに喀血のため若くしてその生涯を終えました。中村 彝の画家としての活躍期間は、僅か20年にも満たないものでしたが、同時に闘病生活でもあったのです。その短い活動にもかかわらず、レンブラントやルノワール、セザンヌなどの西洋の美術研究から、対象のもつ生命感や深い内省的な世界を描き出す独自な画風を確立しました。本展では、中村 彝の画業の全貌を、初期から晩年に至る代表的な油彩画作品を中心に、下記の構成で中村彝の絵画研究の展開に即して紹介いたします。
 第1章:画家としての出発(1907年〜1911年)
 彝が画家をめざし、白馬会研究所や太平洋画会研究所で学んだ初期のころの作品を中心に展示。レンブラントの描法に影響を受けた《自画像》(ブリヂストン美術館蔵)や印象派的な明るい色調と力強い筆触を画面に導入した《麦藁帽子の自画像》( 中村屋蔵)などの油彩画14点と水彩素描3点で構成。
 第2章:中村屋サロン(1911年〜1915年)
 文展で3等賞を受賞し、新進気鋭の作家として注目され出した彝は、当時の芸術家たちのサロンのような場となっていた新宿中村屋のアトリエに住み、ルノワールやセザンヌの描法をもとに作家自身の内面を表出させる作品を制作。とくに献身的に彝を看病した中村屋の長女・相馬俊子を描いた一連の《婦人像》(メナード美術館蔵)や《小女》(中村屋蔵)、《少女裸像》(愛知県美術館蔵)などの作品は、この頃の代表作といえます。この他に《友の像》や《少年像(相馬安雄氏像)》などを含む油彩画34点と水彩素描6点を出品。
 第3章:闘病、下落合のアトリエ(1916年〜1922年)
 恋愛関係にあった相馬俊子との破局は、彝の病状をさらに悪化させるものでしたが、そうしたなかで、彼の画業のなかでも代表作とされる《エロシェンコ氏の像》(東京国立近代美術館蔵)が誕生します。この作品は、ロシア生まれの盲目の詩人をモデルにして描いたもので、出品した第2回帝展で高い評価を受け、今日においても我が国の近代洋画史上、放浪する詩人の孤独感や魂までも描き出した肖像芸術の最高傑作に数えられています。 この他に《裸体》(茨城県近代美術館蔵)や《田中館博士の肖像》(東京国立近代美術館蔵)などを含む油彩画38点と水彩素描等19点。
 第4章:生命、燃え尽きるまで(1923年〜1924年)
 彝の画業の展開は、まさに闘病生活の展開でもありました。彼は宿病との対決を意識し、治療について様々なことに取組んできましたが、この時期には、むしろ対決よりも病との自然律、つまり緩やかに治癒させる境地に至ったようです。そして、造形的にもそれまでのルノワール芸術の感化を窺わせるような作風から脱却し、《カルピスの包み紙のある静物》(茨城県近代美術館蔵)や《頭蓋骨を持てる自画像》(大原美術館蔵)、《老母の像》(水府明徳会 彰考館徳川博物館蔵)などの作品に見られるようなキュビスムの造型感覚を取り入れた手法を試みるようになりました。最終章は油彩画16点と素描等4点で構成しています。

(B.K.)