テーマ上映会
大野一雄ビデオ・ライブラリー

同時開催:「イベントークPart.12
アートプロムナード3 大野一雄小公演」

天地創造、初々しさとはじらい
生まれてくる死者

 大野一雄さんの舞踏ライブラリーのオープニング・イベントにおいて、これまで見たことのなかった『ロングインタビュー』や『ラ・アルヘンチーナ頌』初演を拝見した。『ラ・アルヘンチーナ頌』の最後の花を抱いた場面で、まさしく「初々しい、はじらい」のある乙女と出会うことになった。「初々しさとはじらい」こそ、同インタビューの中で言われていた、「天地の始まり」つまり、「天地創造の一翼を担う踊り」をアルヘンチーナとともに大野さんが受け継いだものである。「赤ん坊が、おぎゃあ、と言って生まれてくる」、「子供が、初々しさとはじらいをもって涙を見せる」こと。「創作と言って、作ったり構成したりするのは駄目なので、生まれてくるものでなければいけない」。これが大野舞踏の原点である。

 土方巽と始めた暗黒舞踏とは、大野さんにとって、「生と死の境界/はざま」に立つことであった。『O氏の死者の書』『死海』『わたしのお母さん』など、大野さんは「死者の恩恵」について語り、自分の魂とからだの中に「死者」が生まれ、日々の夢や眠りの中で育っていることを、自分があたかも「幽霊」となって「死者」と戯れるような舞踏を通じた幽かな世界の中で実感させた。その時、われわれは、親しい死者との内面的な友情を確信し、死や別れの悲しみの感情が、楽しさや嬉しさの感情とともにあることに気づかされるのである。

 映像は、これまで刊行された大野さんのさまざまなテキスト=言葉との往還を促す。映像と言葉の間での読みが深まるにつれて、生と死、宇宙=胎内と命、魂と肉体、思想と舞踏などなど、大野舞踏は、あたかも鏡の破片のようにきらめく象徴の森として見え始めるだろう(『O氏の曼陀羅-遊行夢華』における鏡)。

 同時開催された大野一雄小公演では、舞台の袖に登場した車椅子の大野さんの大きな手に眼を見はり、圧倒的な存在感を肌身に感じた。音楽とともに素早く手を回して踊り出し、無意識のうちに足を前に踏み出し腰を浮かせて立とうとする。それを慶人さんと付き人二人が車椅子から落ちないように懸命に支える。『親切な神様』における「静かな即興」とは対照的な踊る本能の激しい力をわれわれは体験した。われわれは、ライブラリーにおいて各時代の舞踏を体験する一方で、現在のリアルな舞踏へ接する僥倖も得たのである。

上神田 敬(かみかんだ けい/川村記念美術館 学芸員)



ダニエル・シュミットの映像
『KAZUO OHNO』と
大野一雄の小公演

 大野の儚い一瞬の動きを鮮烈な色彩で留めるシュミットの映像は、甘美な音楽と相俟って我々を魅了した。シュミットの映画には、『トスカの接吻』におけるスカラ座のかつての名歌手たち、『デ・ジャ・ヴュ』の17世紀に迷い込んだ老学者など、しばしば老人が登場する。代表作『ラ・パロマ』は、死後3年経過してもなお生前の美しい姿を留める歌姫の物語であった。シュミットは、朽ちゆく果実の妖しい美しさ、死の香りの芳しさに強く惹かれる作家であるといえる。大野は70歳を越えて代表作『ラ・アルヘンチーナ頌』を発表するが、その演じる女性は老齢に達して、一層両性具有的な魅力を増す。大野は女性に変身するのではなく、命の源にさかのぼる行為として女性を踊るのだという。その行きつく先は母胎、母親の存在である。老いはノスタルジーと結び付き、舞踏は生と死のめくるめく循環を孕む。

 映画の上映後、車椅子に乗ったまま大野の公演は行われた。96歳を迎えた今、その体は自由に動かなくなっている。しかしたった今見た映像の魅惑は、現在の大野の身体をオーラのように包んでいる。我々はそこに老いに潜む美しさ、死と生の間にある肉体というものをまざまざと感じる。憧れ、恐れ、悲しみを伝える大野の聖俗併せ持つ表情は胸に迫る。こういって良ければ大野の小公演は、懐かしい人との別れの儀式に立ち会わされているような気にさせた。日常では得難いこうした経験を前に、崇高と感傷の念を感じずにはいられなかった。

能勢陽子(のせ ようこ/豊田市美術館 学芸員)