知られざる神秘空間
レオン・スピリアールト展

 レオン・スピリアールトが生まれ育ったのは、ベルギー北西部のオーステンドという港町である。北海に面するオーステンドは、中世以来、フランドル地方の主要な漁港だった。しかし、18世紀には商業港が設けられてアジアやアメリカとの貿易の拠点になり、スピリアールトが生まれた19世紀末には、ヨーロッパや中近東の富裕階級のための快適な保養地に発展して、海辺には別荘やホテルが立ち並んでいた。

 スピリアールトは、ブリュージュとブリュッセルで短い間生活した時期を除いて、30代なかばまでの大半をオーステンドの町で過ごしている。18歳のときブリュージュの美術学校に入学したが、わずか数カ月で退学してオーステンドに戻り、その後はまったく独習で絵画制作を行った。したがって、彼の芸術はオーステンドの町と海に育まれたといっても過言ではない。だがスピリアールトは、華やかなリゾート地のさまざまな光景を題材にしながら、それらを人の気配のない別世界のような空間に作り変えている。不眠症だった彼は、人々が姿を消した深夜にひとり海辺を歩き、インスピレーションを求めたのだった。

 オーステンドの海辺の堤防は流行の先端をゆく遊歩道として、休暇を楽しむ人々を集めていた。スピリアールトは空間の奥行きと広がりを誇張する独特の手法によって、その堤防を、不安と謎に満ちた世界への通路に変貌させている。見る者を恐怖におとしいれる、途方もなく高い螺旋の塔のような《めまい》の階段も、発想のもとになったのは、オーステンドの堤防から砂浜におりる平凡な階段なのである。また、20世紀はじめに改築が行われた海辺のカジノは、コンサートや舞踏会、展覧会などが開かれるオーステンド随一のきらびやかな社交場だったが、スピリアールトはこのカジノをいくつかの風景画に取り入れながら、建物の外観を現実そのままに描いたことは一度もなかった。ある作品では、中世の城のように幻想的なシルエットとして夜の闇の中に浮かびあがらせ、別の作品では、装飾的な塔やドームを切り捨てて、科学研究所のような冷たい近代建築として描いている。

 スピリアールトの生家は港から200mほどのところ、オーステンドの目抜き通りにあった。そこに彼の父は香水店と美容室を構え、「オーステンドの微風」という名のオリジナル香水を販売していた。1907年から数年間、スピリアールトの生涯において最も独創的な作品群の舞台となったのは、オーステンドの海辺と、父の経営する美容室の内部である。スピリアールトは、鏡が張りめぐらされた密室に独りたたずみ、何の変哲もない化粧品の容器や、鏡の中に無限に繰り返される自分の姿を見つめていた。

 「スピリアールトとはたまたま知り合ったのだが、彼の苦悩にゆがんだ顔の険しくごつごつとした様子に、私はすぐさま強烈な印象を覚えた。その顔は骨ばっていて、深い溝のある顎が目立ち、意志の強さをうかがわせる高い頬骨は、野蛮な感じさえ受ける顎を伴っていっそう際立っていた。穏やかで夢見がちな青い目は、秋の海のように曇ったまなざしをたたえ、それでいて冷たい鋼のようなきらめきを帯びていた。堂々と突き出た額の上には驚くべき量の金色の髪が、ホフマンの物語のように幻想的と言いたくなるほど荒々しく逆立っているのだった……」

 1909年、28歳のスピリアールトに出会ったフランス人の批評家は、彼の風貌をこのように伝えている。前の年に描かれた《自画像》の中のスピリアールトの姿は、この批評家による描写とよく一致する。強い影を刻んでいる目のまわりの窪みと、瞳のかすかなきらめきがとりわけ印象的である。彼の憂鬱なまなざしは、鏡に映った自分自身の姿を確かに正面から見据えていながら、同時になにか別のものを見ているようでもある。

(H.M.)

左上:《めまい》1908年 墨の淡彩、色鉛筆/紙 64×48cm オーステンド市立美術館

右上:《自画像》1908年 墨の淡彩、グワッシュ、水彩、パステル/紙 85×69cm オーステンド市立美術館

下:《堤防と海辺、光の反映》1908年 墨の淡彩、筆、色鉛筆/紙 40×50.5cm 個人蔵