愛知県文化振興事業団公演「夕鶴」を聴いて

 「夕鶴」は、作曲者自身の手によって半世紀に近い上演が記録されたという点で音楽史上にも例をみない作品であり、オペラを私たちに親しいものにするという役割をこれまで担い続けてきた作品でもあった。そして名作といわれる作品は、創作者の手を離れて、その命をさらに新たにすることができるものである。愛知県文化振興事業団と日生劇場の共同制作による今回の公演は、期せずして作曲者團伊玖磨急逝後の最初の本格的な上演となり、「夕鶴」第二世紀のスタートとしての意味をも担うステージとなった。

 「夕鶴」は不思議なオペラである。戯曲(木下順二)がそのままオペラの台本に用いられたとされながら、実際には作曲者によって様々な改編が施されている。特に幕切れ直前の惣どの台詞、それは惣どたちのつうに対する勝利宣言であるが、「ところで、二枚織れたちゅうはありがたいこってねえけ」が削除されたことによって、つうの苦悩の結末は民話調の素朴な紗幕で覆われ、美しい音楽がそれをさらに情緒的にコーティングすることになる。しかし、物語の中心に絶望するつうがいることもまた間違いがない〈注〉。今、「夕鶴」に取り組む意義のひとつは、この秘められた矛盾の表現に挑むことであろう。

 鈴木敬介の演出を中心とする舞台作りは、近年の「夕鶴」上演のスタンダードとして親しまれてきたものであり、とりわけ新鮮味を感じさせたわけではなかった。背景の表現は抽象化され、オペラのなかに日常的な息吹を吹き込むはずの子供たちの動きもデフォルメされている。しかし、鈴木演出の骨格である、つうと惣どを対比させることによって「夕鶴」を支えているふたつの世界のコントラストを鮮明にするという姿勢は、これまでのどの公演よりも明確に伝えられたように思われた。

 今回オーディションを中心に選ばれたという、ただし新人ではなく十分な実績をもつ歌手達は、役柄の内面性に応じてよくコントロールされた歌唱を聴かせた。特に顕著だったのはつうを演じた飯田実千代の成長ぶり。これまでは声をいっぱいに使う力演型の歌唱が多く、それが時として表現を浅くしたが、今回はそこから脱皮して、つうの内面的な心象の変化に対応して声をよくコントロールし、奥ゆきのある表現を聴かせた。対する惣どの戸山俊樹も、山賊の親玉風の出で立ちにはいささかの違和感を覚えたが、それはまた世俗に徹した生き方の凄みをストレートに伝えることにもつながった。

 こうなると、与ひょうと運ずは、まさにドラマの点景としての役割しか帯びなくなる。幕切れ、観客の目は「布」に強引に手を伸ばそうとする惣どに釘付けになり、与ひょうも運ずも、その存在すらが意識から消えてしまう。それは、吉田伸昭と林剛一がそれほどのはかなさで点景に徹した舞台を務めた、ということでもある。

 その点で、今回の公演は、歌劇「夕鶴」のなかにひそむ戯曲「夕鶴」の血を引き出して見せてくれた。観客は、つうとともに、予定された救済と慰めからは遠ざけられるが、それでこそ「夕鶴」もまた20世紀の生んだ歌劇であることの意味が明らかになるのである。

 現田茂夫の指揮する名古屋フィルは、端正な響きでドラマをサポートしたが、テンポがやや単調で、時折、作曲家が振ったときの音楽の大きなうねりがなつかしく思い出された。團伊玖磨は「夕鶴」の指揮台に立つことに情熱を燃やし、そしてロマン的な香りの漂う演奏を聴かせた。その演奏は「夕鶴」の世界を私たちの日常的な感覚に馴染ませるものだったが、あの感触はもう懐かしさとともに振り返るしかなくなったようである。

〈注〉西崎 専一「『夕鶴』のドラマトゥルギー」
  (名古屋音楽大学研究紀要Vol.14)

西崎専一(名古屋音楽大学教授・音楽評論家)

写真/中川幸作 Photograph by Kosaku Nakagawa