名古屋草土社展覚書

 1917(大正6)年2月8日の名古屋新聞の片隅に次のような記事が掲載されています。「草土社洋画展覧会 白光社主催にて草土社名古屋洋画展覧会を十日より三日間愛知商品陳列館に於て開催する由なるが出品百余点岸田劉生氏の作品のみにても七十余点に達し居れりと」。記事とともに、「草土社展名古屋展覧会出品画 岸田劉生作」として《古屋君の肖像》の写真図版がタイトルなしで掲載されています。愛知商品陳列館(正しくは愛知県商品陳列館)は明治末年に商工業の振興を目的として大須門前町に建てられたルネサンス様式の堂々たる建物で、主に愛知県の工業製品が陳列されていましたが、美術展等の展覧会にも会場を提供していました。 

 
「草土社」は1915(大正4)年に岸田劉生を中心にして、木村荘八、椿貞雄、中川一政らによって結成された美術団体です。創立同人のなかには豊橋出身の高須光治も含まれていました。同年10月に開催された「現代の美術社主催第1回美術展覧会」が事実上の「草土社」の第1回展にあたります。「草土社」の名称は岸田劉生がこの時の展覧会に出品した油彩画《赤土と草》(1915)に由来します。翌1916(大正5)年には春と秋に第2,3回展を開催していますが、中川一政の回想によればこの当時はあまりその名を知られておらず入場者はまばらだったようです。

 
名古屋新聞の予告通りに2月10日から12日まで開催されたこの名古屋草土社展の簡単な目録が残されています。それによれば、名古屋新聞の予告とは異なり、総出品点数は65点で、そのうち岸田劉生の作品は油彩画が12点、素描が24点となっています。出品作品の半数以上が岸田劉生の作品で占められていることになります。草土社展が東京以外の都市で開催されたのはこれが最初であり、このときはじめて名古屋の人々は岸田劉生の作品に接したのです。

 
ところでこの名古屋草土社展は通常の草土社展とは性格が異なっていることがその出品作からわかります。岸田劉生は第1回展出品作の《赤土と草》、第2回展の《道路と土手と塀》、《高須光治君之肖像》、第3回展の《門と草と道路》、《古屋君の肖像》、《壺の上に林檎が載って在る》など、それまでに開かれた3回の展覧会の最良の作品を出品していて、草土社の存在を名古屋の人々に強く印象づけようとした感があります。

  
 ところで、この草土社展を誰が名古屋で開催しようと企画し、また実現したかについては現在のところ詳らかではありません。目録には「主催 白光社」となっていますが、この「白光社」がどのような団体であったかも分かっていません。ただこの当時、愛知県で『白光』という文芸雑誌が刊行されていたことを愛知県図書館の浦部氏からご教示していただきました。この『白光』という雑誌もまた幻の雑誌ということで、その詳細がわかりません。雑誌『白光』と「白光社」とがどのような関係にあったのかも現在のところ知る術がありません。ただ、雑誌『白光』を調査することが名古屋での草土社展開催の謎に迫る唯一の方法かも知れません。

 
最後に、この展覧会を見た大沢鉦一郎や宮脇晴、鵜城繁など愛知の青年たちが、岸田劉生の作品群に大いなる刺戟を受け、同年秋に「愛美社」を設立し、迫真的な写実絵画を追求するようになったことを付け加えておきます。草土社の蒔いた種は愛知の地ではじめて芽生えたのです。


【 K.M.】

《道路と土手と塀(切通之写生》 1915年
東京国立近代美術館蔵 *重要文化財

《高須光治君之肖像》 1915年 豊橋市美術博物館蔵

《門と草と道》 1916年 個人蔵

《壷の上に林檎が載って在る》 1916年 東京国立近代美術館蔵

《赤土と草(赤土と草の道)》 1915年 浜松市美術館蔵

《古屋君の肖像(草持てる男の肖像)》 1916年
東京国立近代美術館蔵