イベントークPart9 「アメリカの世紀を超えて」
―モダニズム、ポスト・モダニズムから21世紀へ
愛知県芸術劇場小ホール
アートスペースA

1月16日(火)
プロローグ 上映会「アーティストが手掛けた60〜70年代の実験映画」

谷川俊太郎、武満徹『×』1960年
田名網敬一『グッドバイ・マリリン』1971年、『グッドバイ・エルビス&USA』1971年
マイケル・スノウ『波長』1966-67年


1月17日(水)
Act.1 「荒川修作を迎えて」
第1部 映画上映 荒川修作、マドリン・ギンズ『フォア・エクザンプル』1971年
第2部 対談 荒川修作(アーティスト)×馬場駿吉(俳人、美術評論家)


1月23日(火)
Act.2 「ケイ・タケイを迎えて」
第1部 ケイ・タケイ ダンス公演『イザナギは不在』2000年初演
   音楽 : 佐藤聰明 美術 : 林昭男(建築家)
第2部 シンポジウム ケイ・タケイ(舞踊家)×國吉和子(舞踊評論家)×榎本了壱(クリエイティブ・ディレクター)


1月24日(水)
エピローグ 上映会「ダンスと映像の交点」
イヴォンヌ・レイナー『特権』1990年
ジョナス・メカス『カップ/ソーサー/二人のダンサー/ラジオ』1965年-83年


 21世紀最初の「イベントーク」は、20世紀の文化・芸術に圧倒的な影響力を持っていたアメリカという国を取り上げた。1960年代にアメリカに渡った、アーティストの荒川修作と、舞踊家のケイ・タケイをメイン・ゲストに招いて、20世紀という時代への考察が試みられた。そして、その超克のためのキーワードとして、「身体」という言葉が浮かび上がってきた。

萩原朔美
僕は、アメリカの文化に憧れて、50年代のテレビのホームドラマに影響を受けてました。コカ・コーラやハンバーグなどはTVの中の体験でした。60年代に入って、ニューヨークに行き、オフ・オフの芝居やアングラ映画、現代美術、ヒッピーやドラッグカルチャーとかロックなど、あらゆるものに心を奪われて、ふと気がついたら、もう五十代になっていた。いまだにあの60年代を引きずっているという感じですね。

荒川修作
 20世紀の芸術の歴史をかえりみて、その行動や作品を一つのカタログのようにして、思想の方向をはっきりさせよう、と思いましたね。例えば、マグリットのほんの一部分をオールデンバーグが生涯やっています。トリスタン・ツァラの反復の詩をイラストレーションしているウォーホル。・・・クオリティは少しは変っていますが、大変な無駄がありますね(笑)。こんなことを60年代のはじめ考え、「意味のメカニズム」が始まったのです。丁度、その頃から精神のための芸術から、少しでも距離をとり、新しい世界の構築へ向かったのです。そのうちに、はじめは分からなかったのですが、身体(からだ)の動きや行為が、主題にならなければいけない、ということに、この「意味のメカニズム」の仕事が終わりに近づいた頃、気がつき、新しい身体の動きの実験が始まったのです。


馬場駿吉
 戦後のアメリカの文化というものを、我々は日本にいて受け入れていたのですが、それに対して、荒川さんは、アメリカに行って、じかにアメリカの文化に出会って、さらに、アメリカ文化をどう越えるか、という問題に取り組んだ。その時に、アメリカで出会ったマルセル・デュシャンという芸術家が、思考のための一つのモデルになるわけですね。そのことが、我々の生命を持続させて、永遠性を獲得する為には、どうしたらよいか、という、荒川さんの最近の重要なテーマにつながってくる。そしてそのためには、生命を我々の身体の外に、外在的な状況として、いかに構築するかということが非常に大事だ、という構想が生まれてくる。

國吉和子
 越えるためのひとつのハードル、ちょっと高いハードルとして、常にモダンダンスというものがあって、それを越えるために60年代のアメリカのダンサーたち、特にカニングハムのお弟子さんたちがいろいろなことをやりました。私たちはそれをポスト・モダンダンスというふうに一括して言っていますが、アーティストがやったことはそれぞれ違いますね。ケイさんは、繰り返し(動作の反復)ということでも、例えばイヴォンヌ・レイナーのものとは全然、質が違います。平坦ではない、非常にパッショネートな繰り返しをして、一体この人はどうなってしまうのだろう、というくらいに繰り返して、まるで自分を殺すために、自己を殺すために何かを自分に課している。時折、そんな繰り返しの動きにも見えてくるんです。

榎本了壱
 ニューヨークの60年代は、例えば1930年代のパリに匹敵するようなコスモポリタンな都市になっていて、アートの発信力が圧倒的にあったと思います。ミニマルもコンセプチュアルもポップアートも勢ぞろいしていて、しかもダダイズムの代表格であるデュシャンがもうニューヨークに行っていて、という意味では新しい前衛のるつぼの状態にあったわけでしょう。戦前のパリとは違って、何が発見できるのか、何が始まっていくのか、というのを競争していたような時代だったのではないかという気がします。何かを壊すことだって一つの成果なんだ、という雰囲気がニューヨーク全体にあったのではないか。それはヒッピージェネレーションにもなっていくでしょうし、サイケデリックみたいな動きにもなる。すごくポピュラーな文化も生まれれば、サブカルチャーのようなものも生み出していくということで、すごく広範囲な文化のカオスがあった時代ではないかと思います。


ケイ・タケイ
 ニューヨークに流れているハドソン川に沿って公園があって、秋になると枯葉がいっぱい積もるんですよ。日本の枯葉と違って大きいから、かなり積もります。ハドソン川の枯葉の中を、私はいつも歩いた。そういうことの方が舞踊の勉強になった。歩いたときに、はたはたはたと歩くということが、こういうことだと分かる。学校に行くとクラスで、マーサ・グラハムのスタイル、ホセ・リモンのスタイルと、いろいろな歩き方を習います。でも、ハドソン・パークの中に行って枯葉の中を歩いたときに、「ああ、これが歩く本当の舞踊だな」と思いました。それは、モダンダンスを習ったからこそ気が付いたんです。

 

●荒川修作 
1936年愛知県生まれ。61年よりニューヨーク在住。絵画、著作等、幅広い活動で国際的に評価を得ている。95年オープンの『養老天命反転地』で96年に第28回日本芸術大賞を受賞。

●『養老天命反転地』
1995年に岐阜県養老町にオープンした、荒川修作、マドリン・ギンズ両氏による、身体性を強く意識させる、ユニークな体験型テーマパーク。※写真提供:養老天命反転地

●1960年代は、芸術におけるジャンル間の横断が積極的に行われた。写真は、美術家マイケル・スノウが手がけた実験映画『波長』(1966-67年)の一場面。※写真提供:イメージフォーラム

●『イザナギは不在』より ケイ・タケイ 
1967年、アンナ・ソコロワの推薦でフルブライト研修生としてニューヨークに渡りジュリアード音楽院で学ぶ。『ライト』シリーズ等の作品で高い評価を受ける。

写真:南部辰雄(※印のあるものを除く)