どこかが水漏れしたら沈む乗合船のように、それぞれが自分の分担を綿密な集中力でこなしている
─中馬芳子 振付・構成による「未完成交響曲名古屋組曲」
仁王立ちになった赤い服の女性が指揮棒を振ると、音がさざなみのように立ちあがる。愛知芸術文化センター・フォーラムの、観客の眼の前の、吹き抜けになっている回廊の2階から8階に、ぎっしり並ぶ総勢174人の市民。彼等が手すりを指揮棒で叩いていると気付くまでの一瞬、わたしは不思議な感覚のなかにさ迷った。その音がどこから、どのように沸き上がってくるのか、解らなかったからだ。
指揮者である中馬芳子が、手をグイと差出すと彼等もそれに倣う。ぐりぐりと動かすと同じ動きを迷わず行い、隣の人に動きを伝達し、また返され、やりとりして約20分後に整然と立ち去る。
6才から73才までの174人は、愛知芸術文化センターの呼び掛けに応じて自主的に参加したパフォーマーたちである。
彼等が去ると、愛知県内の13人のダンサーによる、ダンスが続く。これらは、オープンな会場を利用したダンスで、観客は目の前に突然現れるダンサーたちに驚かされる。
中馬芳子が主宰するスクール・オブ・ハードノックスとアスカ・ストリングス・プロジェクト、ファースト・ステップス・ダンス・カンパニーのダンスと演奏が始まるのは最後だ。
これは、まさしく、まことに緊密な共同作業で、どこかが水漏れしたら沈む乗合船のように、それぞれが自分の分担を綿密な集中力でこなしている。たとえば、ピアノを弾いている人を、荒々しい動作でどけて踊りながら弾いたりする。ヴァイオリンやビオラの奏者は位置を次々に変え、ダンサーと接触しつつ演奏する。ダンスと音楽のこうした状況に、観客は唖然とするのか立ち去る人もいたが、次第に混迷を受け入れる。
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民衆は社会の中で、守らなければならないことを命令され、秩序を要求され拘束を受けているかに見える。そのなかで、人は、どのように生きるのか。
「シンフォニー」は、個々の楽器が、最高の条件を保って演奏し響き合う。だれが欠けても、だれかが崩れても響きが違う。欠けたら、崩れたら、ほかのメンバーがカヴァーして、新しい局面を開発する。
それは、自己の秩序を保ち、隣の人の存在に気づき、共存することを視野にいれることである。ヘーゲル以来、西洋哲学が執拗に追い詰めた「自己」と「他者」の問題の重要性がここにある。
しかし、20世紀後半には「富」に対する関心が、自己の利益の追及に転換されすぎて、他人は比較する、あるいは卑下する、無視する存在になっている。共存ではなく、差別の対象になってしまった。
作者は、「富」の支配の矛盾を告知している。豊かなことは望ましい。しかし豊かさとはなにか。
冒頭の174人の市民のパフォーマンスでは、人は誰もが芸術的創造力の持ち主であり、その力によって、何かを伝える事ができると中馬芳子は提案する。形にとらわれない演奏や中馬の踊る力は、既成概念に縛られない不自由を粉砕するエネルギーに満ちている。他者を意識し、21世紀に人と人の関係を考えよう、と中馬は語りかける。
混沌と破壊のエネルギーに満ちたこのパフォーマンスは、ニューヨークの60年代を思い起こさせる。
60年代のアメリカでは、ヴェトナム戦争に疑問を持つ若者が、激しい行為を行っていた。ルシンダ・チャイルドは星条旗の上で逆立ちをした。イヴォンヌ・レイナーはマットレスを運ぶだけの行為をダンスと位置づけた。これらは、一挙にダンスの概念を変えた。既成社会からは無視されたが、新しく育った層から熱烈な支持を受けた。ダンスの革命が起こった。
中馬芳子は1976年にニューヨークにわたり、この運動の渦中に入る。現在に至るまで、数多くの仕事をして、アメリカ社会に強い影響力を放つ人物である。1999年には広島に原子爆弾を投下した飛行士の録音を用いた作品をキッチンで上演し、この問題が永遠の課題をもつことを告げた。
さて、開館以来おこなわれているオープン・スペースであるフォーラムを使っての催しは今回で9回目になる。ダンス、音楽、映像によるコラボレーションなどが行われてきたが、今回、初めて174人もの市民との共同制作が試みられた。
多数の市民による、今回のような開かれた企画は、参加の体験が日常に反映されると、さらに素晴らしい。隣の人にそっと手を差し伸べる、という小さなことであっても、これからの日本には、価値ある大きなことなのだから。
長谷川六(舞踊評論家)
2000年12月8日(金)午後7時開演
愛知芸術文化センター フォーラムI
写真:南部辰雄
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