アメリカン・ドリームの世紀


2000年11月23日(祝)−2001年1月28日(日)
愛知県美術館[愛知芸術文化センター10階]
午前10時−午後6時 金曜日は午後8時まで (入館は閉館30分前まで)
月曜日及び年末年始(12月28日−1月3日)休館
ただし、1月8日(月・祝)は開館、9日(火)は休館
観覧料=一般1,100円(900円)
     高校・大学生800円(600円)
     小・中学生500円(300円)
*( )内は前売り、及び20名以上の団体料金
*身体等に障害のある方、および付き添いの方には割引制度があります。


美術から生活まで、U.S.A.カルチャーのすべて

 「アメリカン・ドリームの世紀」と名付けられたこの展覧会は、アメリカの世紀とも形容される20世紀を振り返るひとつの機会を、大量生産、大量消費を土台として生まれた美術作品をはじめ、数々の物を通して提供しようとするものです。1950年代、60年代を中心にして、アメリカ型の生産システムが整ってくる1920年代以降の美術とそれを取り巻く文化全般を、T型フォードからアップル社のコンピュータに至る工業製品や、写真、レコード・カバー、テレビ映像などと普段、愛知県美術館ではお目にかかれないものを数多く展示し、輝くアメリカを感じ取っていただこうとするものです。

 あらためていうまでもなく現在の日本は、アメリカ文化の強い影響下にあります。それは第二次世界大戦後、食料品をはじめとする生活必需品から、家庭電化製品や自動車のような耐久消費財などのあらゆる物が溢れ、自由で豊かな夢の国として日本人の目に映り、それまでとは180度転換し、アメリカ的な消費社会を追い求めることになった結果と言えます。

 わたしたち日本人にとって「アメリカン・ドリーム」という言葉の響きには単に物質的な成功の夢というだけでなく、「自由」や「平等」といった理念のうえに、輝きを持った未来像のようなものをイメージさせるものがあります。それは、第二次世界大戦後の日本人の目に映ったアメリカが、自分たちとは違う理念のもとに社会を構築し、豊かな生活を現実のものとしていたからかもしれません。

 一方アメリカ人にとっての「アメリカン・ドリーム」とは、どんなものだったのでしょう。第二次世界大戦後、自国の領土が戦場にならなかった大国として、その繁栄を謳歌し、アメリカ人自身が善意と豊かさにあふれた輝けるアメリカを信じていた1950年代には、それ以前の宗教的感情を重んじ、また「フロンティア・スピリット」という言葉に表されるような、精神性に重きを置き、崇高な理念を実現する「アメリカン・ドリーム」から、消費社会の発達と共に、物質的な成功の夢としての側面が強くなっていきました。

 「どのような生まれの子でも大統領になれる」という言葉がありますが、ある頂点を極める可能性を希望を込めて言い表した言葉でもあり、「アメリカン・ドリーム」の精神的な側面の典型とも言えそうです。しかし、一般大衆にとっては、まずは経済的な安定であり、「持ち家に住み、子供を大学にやり、退職後はフロリダに住む」というような物質的な側面の意味合いが強くなっていきました。

 この「フロリダで引退する」というアメリカン・ドリームのことを映画『イージー・ライダー』でのビリー(デニス・ホッパー)が言っていたのをご記憶の方があるでしょうか。映画の終わりに近く、ワイアット(ピーター・フォンダ)とビリーの最後のキャンプ・ファイアのシーンでした。
 「俺たちは金持ちだぜ!フロリダで引退だ!」(ビリー)
 「僕らはだめにしたんだ。」(ワイアット)というシーンです。

 この映画のあらすじは、二人の男がコカインの密輸で大儲けし、改造したオートバイを手に入れた彼らは、時計を捨てて、ロサンゼルスからニューオーリンズを目指す。その途中にいろいろな人々と出会い、矛盾に満ち、夢の消えた現実のアメリカと直面するというものです。このキャンプ・ファイアの場面に、時代が移っていることを象徴的に見ることも可能でしょう。

 1969年に公開されたその映画がヒットした背景には、いろいろな要素が考えられますが、ヴェトナム戦争が泥沼化し、「強いアメリカ」神話に陰りが見えてきた時代であったことが、特に若い世代に受けた大きな理由のひとつと言えます。

 第二次世界大戦から戻ってきた若者が「復員兵援護法」の恩恵を受け、誰もが経済的、物質的な幸福というアメリカン・ドリームを夢見ることのできた時代から、次第に格差は広がり、理想に燃える象徴でもあったジョン・F・ケネディは暗殺され、大都市では黒人暴動が起きたり、ヒッピーのドラッグ使用はあたりまえとなり、国民はヴェトナム戦争に失望するようになります。そしていつ徴兵されるかという不安をかかえた若者と、戦争から戻った若者は歓迎される存在でもありませんでした。

 ハリウッドの映画産業では、それまで巨大映画スタジオが映画製作を牛耳り、俳優や監督を傘下に収め、実績のないものが映画を作ることは極めて難しかったのです。しかし、この映画では、経験の乏しい若者(制作を開始したときフォンダは28歳、ホッパーは32歳であった)がユニオン未加入のカメラマンなどのスタッフを使って、しかも低予算で作り上げた。その結果は興行的にもまた批評的(カンヌ国際映画祭で「新人監督による作品賞」を受賞)にも期待以上のものを勝ち得ました。

 この事実が、その後の映画作りに多大な影響を与え、新たなアメリカン・ドリームとも言えるような、今では誰もが知っているような才能ある新しい世代の映画制作者がその才能を発揮できるチャンスを与えられるようになっていったのです。その新しい世代とはフランシス・コッポラ、ジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグなどです。

 また、この映画の中で描かれたヒッピーのコミューンというのは、若者たちが、「反機械文明」とか「原始に帰れ」といったスローガンのもとに都会生活を捨てて、共同生活を試みたものでしたが、そこには当時アメリカ社会のうわべの輝く生活にひそむ矛盾を、敏感に感じ取った者たちの「異議申し立て」としての行動だったともいえます。一方では「ホール・アース・カタログ」のように自給自足の生活とエコロジー思想や精神世界への関心などと結びつき、社会からドロップアウトした者たちの、新しい社会建設の場でもありました。こういった動きはそれまで正当とされてきた伝統的な文化に対しサブ・カルチャーとして次第に広範な影響力をもつにいたり、象徴的な出来事として、この映画と同じ年の8月に開かれた「ウッド・ストック」コンサートに40万人とも言われる若者が集まったことからも伺い知ることが出来ます。

 そして、このあとカウンター・カルチャーの中から才能を持った若者が自らの発想を信じ、大企業の研究室でなくガレージの中からアップルのコンピュータを世に送り出したように、インダストリアリズムからポストインダストリアリズムの時代、つまり機械化時代から今に続く情報化の時代へつながる新たなアメリカン・ドリームの始まりの時期でもありました。

(S.T.)