ドラマティック・シアター
tpt プロデュース 「橋からの眺め」
アーサー・ミラー作/ロバート・アラン・アッカーマン演出
 

透徹した裸眼に映った「橋からの眺め」

 わが国でも最近、密入国、不法滞在、不法就労などという言葉を耳にし目にすることが次第にふえて来た。社会の水面下の薄闇の中では、その当事者周辺にもさぞかし複雑で深刻な人間関係や事件が生起し、そのうちのある部分だけがわれわれの耳目にとどいているのだろう。

 tpt(シアター・プロジェクト・東京)プロデュース公演「橋からの眺め」(1999年6月3日〜6日、愛知県芸術劇場小ホール)はとくにこうした問題に悩むアメリカのイタリア移民社会の一家族に生じた波紋をリアルに描くドラマ。作者は「セールスマンの死」など多くの名作を生み出している20世紀最高の劇作家の一人、アーサー・ミラー(アメリカ)。演出は97年からtptのアソシエイト・ディレクターをつとめているロバート・アラン・アッカーマン。現在、ブロードウェイ、ロンドン・ウェストエンド、東京など世界各地で意欲的な舞台づくりに活躍している気鋭の演出家である。

 このドラマの舞台はニューヨークのブルックリン。イタリアからの移民が多い港湾地区の安アパートに住む荷揚げ労働者エディ(堤真一)とその妻ビアトリス(久世星佳)、それに彼女の姪で、両親を早くに亡くしたキャサリン(馬渕英里何)の三人家族は一見、平穏な日々を過ごしている。しかし成長したキャサリンに対するエディの単なる保護者の心情を超えつつある関心は、彼女の就職についても干渉するなど、次第に妻ビアトリスも気付くほどになる。ただし、エディ本人はそれが心理の奥にある特別な欲望によるものであるという自覚はない。そこへイタリアから密入国してきたビアトリスの従兄弟二人(山本亨、高橋和也)が現われて、この家にかくまわれ同居。やがてキャサリンは若い方のロドルフォ(高橋)と恋仲となり、その親密な行動がエディの目にとまる。エディは逆上し、それを引き裂こうとして、移民局に密告。兄のマルコ(山本)は拘束されるが、取り調べの後、一旦保釈。エディはナイフを手にしてマルコと諍ううちにそのナイフが刺さって死ぬ、という悲劇的結末を迎えることになる。

 このストーリーは、劇作家アーサー・ミラーがブルックリン在住当時、実際に起こった事件の内容を近所の人から伝聞して書き上げたものだといわれている。こうした市井の社会現象を、アメリカ合衆国の抱える問題の一断面として描き出した、ということもミラーの時代感覚の鋭さを示すものなのだが、この事件の深層に横たわる人間の威信と欲望、理性と激情の葛藤を、そのはざ間に立つエディという人物の行動とその運命を借りてえぐり出した彼の想像力はさすがにすばらしいと言える。「橋からの眺め」とはイースト・リバーを跨ぐ橋から眺めたブルックリン地区の光景あるいは人間の生活と悲喜を意味するのだろう。その詳細を見とどける作家としての透徹した裸眼視力にもまた驚く。

 社会から見れば、正義であっても、個人的な見方をすれば悪である場合もあり、また、逆に社会的には裏切りとみられる行為も、自己への忠誠であると見なしうる場合があろう。こうした状況を、われわれはもちろん現実社会で体験することもあるのだが、アッカーマンの演出は、そのねじれを舞台にくっきり描き出し、そこに一とすじ縄ではゆかぬ人間の本性を浮き彫りにして見せてくれた。また一方、1950年代前半のアメリカ合衆国における、貧しいイタリア移民社会の雰囲気を日本の俳優たちによってこの演出家はどう立ち上げるか、ということも興味の一つだった。その点に関して特別な配慮がなされているとは感じられなかったが、後半、急速に高まる家族内の心理的緊張状態の中で、ふと洩れる若い密入国者ロドルフォのイタリア人的な陽気さが、逆にこの舞台全体を覆う抑圧的な重さを強調するとともに、終幕近くの修羅場の悲劇性を高める隠し味として効果的。出演俳優の一人一人はゆるみない演技に徹し、久しぶりにギリシャ悲劇にも似た緻密で陰影に富んだ舞台に接する機会を与えてくれた。また、ブルックリンの安アパートの雰囲気をよくつかんだ礒沼陽子の舞台美術、沢田祐二の照明も出色。もの憂さに満ちた移民たちの貧しい生活を一層リアルに感じさせた。

馬場駿吉 
 

 写真/安井豊彦