二十歳で逝った天才画家
関根正二(せきね しょうじ)という画家をご存知の方も多いと思う。彼は若くして亡くなったことと、その個性的な画風により大正期を代表する画家として村山槐多とならび称されている。関根は1919(大正8)年6月に20歳で、村山は同年2月に22歳でその短い生涯を終えている。
関根正二は1899年に福島県白河に生まれた。父が屋根葺職人だった家族は、彼が小学生で8歳の時に生活の糧を求めて東京深川に出た。この時、何故か関根だけは白河に残された。そして一年後、彼もようやく東京で家族とともに過ごせるようになった。この深川の地で、後に日本画家として名を成した伊東深水と交友し、やがて画家を志すようになっていった。彼が画家として活躍する契機、それは15歳のころ、野村という日本画家とともに放浪の旅にでて、途中からは一人で甲信越方面を旅行したことにあった。彼はこの旅行の途中、長野で4歳年上の画家、河野通勢と出会った。関根は、河野の油彩画やペン画、また彼の手元にあったデューラーやレオナルドの画集をみて、大きな刺激を受けた。そして、みずからの画風を一変させて《死を思う日》を制作、1915(大正4)年の第2回二科展に出品して初入選し、画家としての道を歩みはじめた。
その後しばらく、彼は写実を基本とした研究と制作を続けていった。そして1917(大正6)年、喜久子という女性への恋が破局をむかえると、傷ついた心を癒すためか、友人であった村岡黒影を頼って山形に向かった。彼はこの地ではじめて女性への思慕を象徴的に表現した《天平美人》という屏風を制作し、新しい境地に入っていった。翌1918年の春、彼は帝大病院で蓄膿症の手術を受けたが、予後は思わしくなかった。彼はこの入院の時に知り合った田口真咲という女性に恋をした。これは彼の一方的な片想いで、相手に嫌われたばかりか、若い画家仲間でライバルでもあった東郷青児に彼女を取られてしまった。関根は極度の神経衰弱に陥った。彼が発狂したという噂が流れたのはこの頃であった。
この時期に、彼が幻影を見て描いたというのが、代表作として知られる《信仰の悲しみ》である。この年の秋、第5回二科展に《信仰の悲しみ》をはじめ《姉弟》《自画像》を出品して、新人賞である樗牛賞を受賞し、画壇で一躍注目されるようになった。しかし、彼にはもう9ケ月ほどしか制作の時間は残されていなかった。《信仰の悲しみ》に続いて《神の祈り》《三星》など、彼を特徴づける幻想的な作品をつぎつぎに描いていった。それは関根がイメージした理想の世界であった。肺を病んでいた関根は1919年の6月、制作を続けてきた《慰められつゝ悩む》に母や姉に助けられながらサインをしようとして果たせず、その翌日、深川の自宅で短い生涯を閉じた。
"Masaji" ─ もう一人の関根正二
関根が放浪の旅の経験をもとにして描いたと思われる《死を思う日》。この作品には"Shoji
Sekine"というサインがある。彼は「せきね しょうじ」という名で画壇に登場した。それ以来、作品には"S.Sekine""S.S."といったサインを繰り返している。この時以来、今日に至るまで彼は「せきね
しょうじ」である。ところが、彼の遺した作品には一つの謎があった。それは晩年の代表作の一つとして知られる《子供》(ブリヂストン美術館)には、何故か"Masaji"というサインがあるということであった。確かに「正二」という名は「まさじ」とも読める。それにしても、この作品に"Masaji"とはどういうことなのだろう。他に"Masaji"というサインがあったのは《少女の顔》と呼ばれている素描だけであった。
今回、生誕100年を記念する関根正二展の準備作業のなかで、我々は幸運にも彼の未知の作品と出会うことになった。それも油彩画を含む7点もの作品とである。関根の作品はわずかしか遺されていない。現在確認できる油彩画は小品や扇面も含めて26点、素描など全てを集めても100点に満たない。それ故、未知の作品7点の出現というのは、彼の場合に限っては大きな意味をもつものであった。この新出の作品のなかに、先の謎を解く、そしてその謎を一段と深くする作品が含まれていた。1918年の油彩画《小供》、これにも"Masaji"というサインがある。そして他の素描にも"Masaji"というサインのものが2点も出てきたのである。
これだけ"Masaji"というサインのある作品が出てくると、これは画家の気まぐれとは考えられない。画家は、何かを意識してこのサインを使ったのではないか。そう思って"Masaji"というサインのある作品をながめてみると、そこには明確な共通点がある。これらの作品には、すべて子供、それも男の子が描かれている。従来から《少女の顔》と呼ばれている作品も、そうしてみると男の子としても不自然ではない。モデルが「まさじ」という子だったのだろうか。それはまず考えられない。関根は、誰かの肖像を描いた時は"Portrait
of …"という書き込みをするのを常としている。自画像でさえ"Portrait of S.Sekine"という書き込みのあるものが存在する。これらの作品のように、制作年とともに"Masaji"と書き込むのは、明らかに作者の署名としての行為である。
関根正二は、本当は「まさじ」だったのだろう。そう言えば、家族は彼のことを「まさちゃん」と呼んでいたと伝えられている。おそらく彼は、《死を思う日》で画壇にデビューする時「せきね
まさじ」という名ではなく、よりモダンな響きと感じられる「せきね しょうじ」の方を選んだ。このような名前の読み替えは、他の画家でも時々見受けられる。一つの謎は解けたように思う。彼は、本当は「せきね
まさじ」だったのであろう。そして彼はその後も一応「せきね しょうじ」でありつづけた。一応というのは"Shoji
Sekine"というサインは、これきり出てこない。彼は"S.Sekine""S.S."というサインを続けた。その関根が《信仰の悲しみ》などの作品で代表される、制作が非常な高揚を見せた1918年から1919年にかけて、子供(男の子)を描いた作品に限って"Masaji"というサインをした。一つの謎は解けて、謎はますます深くなってしまった。関根は、子供の姿に何をみていたのであろう。そして何を表現しようとしたのであろう。"Masaji"というサインをした、もう一人の関根正二という画家は、私たちにどんなメッセージを伝えようとしていたのであろうか。
【 M.M.】
《子供》1919年 カンヴァス、油彩 60.6×45.5cm 1919 masaji(左上)
ブリヂストン美術館蔵
展示期間 : 10月29日(金)〜11月14日(日)
《少女の顔》(部分) 1918年 紙、インク 21.5×21.5cm
1918 masaji(左中) 神奈川県立近代美術館蔵
《小供》1918年 カンヴァス、油彩 45.3×37.6cm
1918 masaji(左上) 個人蔵
─生誕100年─ 関根正二展
SEKINE SHOJI 1899-1919
1999年10月29日(金)−12月12日(日)
愛知県美術館[愛知芸術文化センター10階]
午前10時〜午後6時 金曜日は午後8時まで
(入館は閉館30分前まで) 月曜日休館
観覧料=一般1,000円(800円) 、高校・大学生700円(500円) 、小・中学生400円(200円)
*( )内は前売り、及び20名以上の団体料金
*身体等に障害のある方、および付き添いの方には割引制度があります。
●記念講演会
11月6日(土) 「悲哀の聖地へ─関根正二の世界−」
………講師:村田真宏(愛知県美術館主任学芸員)
会場/愛知芸術文化センター12階 アートスペースA
時間/午後1時30分〜3時 *無料
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