異形・奇形的な身体のイメージは、ギリシア神話の半人半獣の怪物や、東洋の妖怪など、神話・伝承の時代より現在まで、絶えず人間に創造的なインスピレーションを与えてきたといえるだろう。近年でも、大友克洋『AKIRA』(1988年)や庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜1996年)など、社会的なブームを巻き起こしたポピュラーな表現である漫画やアニメーションに、共通して異形的な身体像が見出せることは興味深い。

 今回のイベントークでは、異形的な身体のイメージをテーマに、今日のこうした表現の背景にあるものとして、1960年代後半の寺山修司の初期演劇や、実験的なアニメーション作品、さらに同時期に人気を博した怪獣映画などを取り上げた。今も少なからぬ影響力を持つこれら異形の身体にまつわる事例には、ファインアートとサブカルチャーの境界を揺るがすような運動が内包されていて、今日の文化的土壌や感性を形成した、一つの震源地であったといえるのかもしれない。

【T.E.】

 

講演「寺山修司の演劇に見る異形と見世物性」より
1999年1月22日

高取英(劇作家)

 『青森県のせむし男』は、寺山さんの最初の「天井棧敷」の作品です。この時に標語として「見世物の復権」を掲げ、巨人、侏儒、変身願望者、美少女などを求む、という広告を出す。その次に上演したのが『大山デブ子の犯罪』で、私も太っていますけれども、私よりももう少し大きい女性を主人公に作品を書くわけです。その次に『毛皮のマリー』を書きます。これは、老娼婦の話ですけれど、実は女装した男です。そうした、一般からややズレた形の人たちを、寺山さんは好んで作品にしています。なぜ、そんな作品が多かったのか。寺山さんの書いた本の中にそれに対する答がある。日本の近代が画一的な人々を作っていったことに対する反発としてそういう作品を書いている、という言葉があるんです。

(中略)

唐十郎、寺山修司、鈴木忠志、佐藤信の4人を代表とした、1967年頃から盛んになるアングラ演劇以前のアンダーグラウンドに何があったのか。その一つに、貸本劇画があった。その代表的な作品に、白土三平の『忍者武芸帳』があって、首がバンバン飛ぶような描写で、残酷漫画だなんて批判されていた。例えば、飢饉で死んだお母さんが、人の肉を食ったという疑いをかけられて、湖に沈められてしまう。お母さんは湖の底なんで、きれいなままなんですね。息子が、お母さんの姿が見たいがために、湖にドボンと飛び込む。ところが、息が続かないんで上がってくる。毎日そんなことをして暮らしているうちに、これは漫画ですから有り得ないんですけど、わきの下に穴が開いてエラ呼吸ができるようになる。一世代において進化を遂げるわけです。そうした異形の身体が貸本劇画の世界には出てくるわけです。

(中略)

唐十郎の「紅テント」が、江戸時代の歌舞伎の小屋掛けの形態であり、近代批判として前近代のそれを取り入れたように、寺山さんの場合は、貸本劇画で活躍していた楳図かずおの絵を舞台美術に使ったりした。新劇に対するカウンターカルチャーをアングラ演劇で展開する中で、当時のアンダーグラウンド的なもの、貸本劇画の世界を導入する形で、そして、異形の身体を舞台に出すことで、一種の近代批判を行っていた。

 

萩原朔美(エッセイスト)

 寺山さんは、引用、コラージュを多用した人で、短歌などでは、本歌より良い場合がしばしばあった。ただし、「からだ」は引用できない。寺山さんは、『大山デブコの犯罪』という芝居を上演する時、百貫デブを集めろと言った。他の初期の頃には様々な異形の身体を募集した。それが舞台に出演した。もちろん、大きなからだは比喩であり、その意味では身体を使った近代批判である。その存在感には、日本人が金髪でやる新劇はかなわない。百貫デブがセリフをしゃべることで、一挙に横文字の入ったフィクションはリアリティを失ってしまう。寺山さんは、等身大の人間の限界について考えていた、と発言しているけれど、それは、異形に魅かれる動きと兄弟のようだった。『畸形のシンボリズム』という本を、本当はもっとしっかりと内容を深めて書き残したかったんだろうと思う。

 

講演「美術表現と怪獣」より 1999年1月23日

椹木野衣(美術評論家)

 「異形としての身体」というテーマを与えられた時に、最初に私自身の頭の中に浮かんできたのが怪獣だったんです。まず第一に、自分が子供の頃に怪獣に非常に強く惹かれた、ということがあります。そのことを改めて考えてみた時に何が見えてくるのか、と思っていたんですね。

(中略)

1960年代後半の初期「ウルトラ」シリーズに参加した美術家・成田亨、高山良策による怪獣のデザインや着ぐるみの創作というのは、彼らはもともと純粋芸術を本業としているわけですから、しばしば、それに対する余業として位置づけられてきたと思うんです。しかし、現在の現代美術の一つの流れにある、ハイカルチャーとサブカルチャーというのを意図的に無効にしてしまう考え方から見た時、むしろ、あえていえば、怪獣を現代美術の現在の主流に流れ着くような作品として捉えることができるんじゃないか。その一つの出発点を、そこにはいろんな偶然も関与したとは思いますけれども、非常に早い段階で実践していた例なんじゃないか。その先駆性が、今ジャンルを混交させて新しい可能性を切り開こうとする現代美術の実験、もしくはそこで評価されている作家たちに、自分の創作と非常に近しいインスピレーションを与えることになっているのではないか、というふうに思うんです。

(中略)

怪獣という言葉について考えていくと、いろんな意味で境界を横断して、2つの領域を分け隔てる壁を壊して、壁を壊された交通空間に立ち表れてくるという傾向があると思うんですね。それは、その制作過程でもやはりあるのではないか。両者のあいだには、分業という言葉ではくくることのできないイメージと技術の交換があったのではないか、と思うんです。成田亨はしばしば怪獣のデザインを非常にシンプルにまとめましたから、最も重要なイメージ図しか描かないこともあった。それがどのような形で立体となるのか、さらにそこに人が入って操作するのですから、人間の身体との関係まで考えなければ着ぐるみとして成立しないわけです。高山良策のそこに凝らされる様々な工夫、つまり、機械技術の導入、様々な素材の選択、事故に対する注意、そうした技術の集積、さらに、美術史の様々な成果、自分の絵画を作るときのイマジネーションの余韻といったものが、いろんな形で複合して、一種のコラボレーションと呼べるようになったもの、その結果が怪獣だったんじゃないか。

 

企画監修・司会/萩原朔美

〈公演概要〉

●1999年1月22日(金) 於:愛知県芸術劇場小ホール
演劇公演/『青森県のせむし男』(1967年初演) 作・寺山修司 美術・朝倉摂 演出・長野和文(演劇集団 池の下)

●1月23日(土) 於:愛知県芸術劇場小ホール
映画上映/『かげ』(1968年、監督・林静一、16mm、4分)
『牛頭』(1968年、監督・古川タク、16mm、4分)
『宇宙人東京に現わる』(1956年、監督・島耕二、宇宙人デザイン・岡本太郎、大映、35mm、87分)
映像ライブ/『Pinocchio √964』(1991年、監督・福居ショウジン、16mm、96分40秒〈964〉) パーカッション演奏・影山拓

●1月21日(木)〜24日(日)
展示/『シュルレアリスムの日本的受容 高山良策展』 於:アートスペースG
絵画23点、立体2点、怪獣造形10点、 造形スケッチ8点を展示
協力/円谷プロダクション、高山利子、ストライプハウス美術館

 

演劇集団 池の下『青森県のせむし男』

『高山良策展』 展示風景

『Pinocchio√964』ライブ上映

 
写真/南部辰雄