愛知県美術館の所蔵作品展をつねに飾っている作品のひとつにドイツ表現主義最大の画家とされるエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880-1938)の『グラスのある静物』(1912年)がある。当時原始美術に関心を寄せていた画家がみずから制作した果物鉢や椅子に果物やグラスを配した作品で、ベルリンのアトリエで描かれたものである。彼独自の色彩感覚や鋭角的な筆触の萌芽が示された作品であると同時に、彼の関心の所在を如実に示す作品として彼の作品中でも重要な作品なのであるが、こうした作品そのものの評価とは別にこの作品を忘れ難いものとしているのは作品に刻まれたその受難の歴史であろう。
1937(昭和12)年6月30日、アドルフ・ヒトラーの意を体してドイツ第3帝国宣伝相ヨゼフ・ゲッベルスはプロイセン美術院総裁アドルフ・ツィーグラーに《退廃美術(堕落した美術)》を美術館から没収し、それらをまとめて公衆の目に曝すための展覧会を開催するよう委嘱した。1933年5月10日ベルリンをはじめとする大学都市で反ドイツ的とナチスが見做した書物を燃やした悪名高い《焚書事件》が美術作品にも及んできたのである。画家になれなかった独裁者が憎み、ナチスによって《退廃美術》の烙印を捺された美術はキュビスム、ダダイズム、表現主義、抽象、シュルレアリスムなど近代美術全般に及ぶ。ドイツ各地の美術館などから没収された16,000点以上に上る作品のなかにはゴッホの自画像やピカソ、クレー、エルンスト、カンディンスキー等々近代美術の先駆者たちの多くの作品が含まれていた。
キルヒナーの『グラスのある静物』はライプチヒに程近いハレの町のマウリツブルグ美術館の所蔵作品であったが、ツィーグラーのメンバーによって没収され、《退廃美術展》に出品するためミュンヘンへと運ばれた。考古学研究所の建物を使った急拵えの狭い展覧会場には7月19日の開会式に間に合わせるためにドイツ各地から急いで集められた約120作家、650点の作品がガラクタのように詰め込まれた。とりわけナチスに忌み嫌われたのは表現主義で、キルヒナーが32点、ベックマンが21点、ディックス、グロッスがともに20点、ココシュカがこれに次ぐ。彫刻家ではバルラッハ、レームブルックの作品。ちなみにカンディンスキーは16点、クレーは15点がこのおぞましい展覧会に並べられた。
《グラスのある静物》は第5室の南面の仮設壁に掛けられたが、その上には「病的精神が自然をこのように観た」という嘲笑的な解説が書かれていた。このナチスによって組織された近代美術抹殺の儀式には11月までの会期中に200万人を越える入場者があったことも記憶しておいてよいことだろう。キルヒナーはこの翌年自らの生命を断っている。『グラスのある静物』は幸いにも命脈を保ち、ドイツの軍費を賄うために国外に売却され、変転の末に今日愛知県美術館の展示壁を飾っているのである。
ドイツでこの近代美術を根絶やしにするための徹底的な弾圧(それは美術家ばかりでなく美術館人や美術史・美術批評家にも及んだ)がおこなわれていた丁度そのころ、日本では瀧口修造と山中散生とがエリュアールなどの協力を得て《海外超現実主義作品展》(春鳥会主催)の開催にこぎつけている。銀座日本サロンでの東京展(6月9日─14日)を皮切りに、京都、大阪、名古屋と巡回した。名古屋では丸善を会場とし7月10日から12日までの三日間開かれている。
展覧会は写真資料を中心に若干の水彩、素描、版画、ポスター等377点で構成され、エルンスト、ダリ、ミロ、ピカソ、クレーなど45作家が紹介されている。山中、瀧口による熱心な啓蒙活動もあってこの展覧会は大きな反響をよび「日本のシュールレアリスム運動の爆発を誘因した導火線としての役割を果たした」(山田諭)と評価されている。長谷川三郎、山口薫、矢橋六郎、村井正誠らによって結成され抽象系の画家を多く擁した前衛美術団体《自由美術家協会》の第1回展が上野の日本美術協会を会場に開催されたのもこの7月のことである(7月10日─19日)。美術雑誌では前衛美術の動向に多くの紙面が割かれてもいる。そして1940年までの間、《創紀美術協会》、《美術文化協会》、《九室会》などが結成され、戦前期における前衛美術運動の昂揚期が続くのである。
1936年、日本とドイツは日独防共協定を締結し、ファシズムの盟邦国となったが、文化政策においてはこのころまだ大きな温度差があり、括弧つきではあるが自由がまだ日本にはあったといってよいであろう。日本においてもナチスドイツ同様、ナチスに先行して共産主義運動に対しては苛酷な弾圧を加えてきた。1933年、特高警察は小林多喜二を築地署で殺し、その翌年には日本プロレタリア美術家同盟を解体するなど1935年までにその文化活動を完全に封殺したのである。
《海外超現実主義作品展》が日本を巡回していたさなかの7月7日、北京郊外の蘆溝橋で日中両軍の衝突が起こる。日中戦争の勃発である。「日支事変と美術との関係は、最も重要視される所であるが、国家としてのおちつきと余裕とは当初の危惧を見事に裏ぎって、わが国が軍事行動に全力を注ぎながら、文化的方面の活動には殆ど何等の支障を来たさざる」(「昭和十二年度美術界概観」『日本美術年鑑』)とあるように、この戦争を契機とした直接的な美術統制はなかった。
しかしながら、美術家や美術批評家はドイツにおいて何が起こっているかを、『ナチス・ドイツの文化統制』(成田重郎「美之国」昭和12年7月号)や美術雑誌「アトリエ」の特集記事『ナチス芸術政策の全貌』(昭和12年10月号)などによって知っていたから、やがてこの国においても戦争の進行にともなって同様な事態が起こるかもしれないという強い危惧の念を抱きながら制作や批評活動をおこなっていた。
数年後にその危惧は現実となり、軍部による露骨な統制が前衛美術を終息させることになる。しかしながら、その残されたわずかな時間の中で日本における前衛美術は花開き、靉光の《眼のある風景》(1938年)のような時代の不安を凝縮した傑作がうまれたのである。
『危機の時代と絵画=1930-1945=』では、こうした時代に生きた13人の画家の作品をとおして絵画と時代との関係をいまいちど見つめなおしてみたいと考えている。
【 K.M.】
国吉康雄《ここは私の遊び場》1947年 ベネッセコレクション 国吉康雄美術館蔵
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー
《グラスのある静物》1912年 油彩、麻布
靉 光 《眼のある風景》1938年 東京国立近代美術館蔵
1999年9月3日(金)−10月17日(日)
愛知県美術館[愛知芸術文化センター10階]
午前10時〜午後6時 金曜日は午後8時まで
(入館は閉館30分前まで) 月曜日休館
観覧料=一般1,000円(800円)
高校・大学生700円(500円)
小・中学生400円(200円)
*( )内は前売り、及び20名以上の団体料金
*身体等に障害のある方、および付き添いの方には割引制度があります。
●記念講演会
9月11日(土) 午後1時30分から
講師:市川政憲(東京国立近代美術館次長)
会場:愛知芸術文化センター12階 アートスペースA
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