「前田寛治の芸術」展調査ノ−トから

─寛治と鉄斎─

 いささか唐突な作家の組み合わせによる題名で、いかなる話しとなるやら先行き不安を覚えた方もおられるかと思う。寛治は、今回の展覧会の主役である前田寛治(1896-1930)で、西洋の伝統的な美術を根底に活躍した画家。かたや鉄斎は、東洋美術を根底に自在な境地を開いた最後の文人画家といわれた富岡鉄斎(1836-1924)のことである。

何故に西洋と東洋の美術の両極に位置するこの二人の画家を並列的な組み合わせとして登場させたかといえば、「前田寛治の芸術」展の調査において、寛治の造形表現の展開を追っていくなか、彼が用いた描法で、しばしば文人画(南画)で用いられた描法と類似するものが散見され、また、未完とも思われる空間処理の点で、ある種の共通項が見られたからである。あわせて寛治が活躍した大正末期から昭和初期の同時代の、それもヨーロッパへ留学した画家たちのなかに、鉄斎を高く評価した者たちが多くいた。では、寛治は鉄斎に対して如何であったのかという率直な疑問が湧いてきた。このふたつことから、寛治と文人画(=鉄斎)との関係について興味を覚え、ノート的な形式で考えを進めてみた。

 ここで述べた類似する技法とは、寛治の後期(1928年以降)の風景画や人物画などに用いている点描的な表現と、文人画でみられる山水画の技法のひとつである米点による表現のことをいう。彼の点描的な技法は、すでに静物画の《ダリヤ》(1921年)や風景画の《竜巻》(1921年)、帝展初入選となった《花と子供等》(1921年)などの作品から窺われるように初期(1922年以前)の段階から現れている。しかし、これら初期の作品で用いられた細かく断続的な筆触と、後期になって登場してくるそれとは、少し内容が違うものと考える。

つまり、初期の作品にみられる筆触はゴッホの影響を強く受け、内的な情感の表出と直結し連動したものであり、後期のものは、画面構成上の効果として客観的な視点からの使用といえる。たとえば後期作品の第9回帝展へ出品した《裸体》(1928年)や第4回一九三○年協会展へ出品した《裸婦》(1928年)、《棟梁の家族》(1928年)、あるいは第5回一九三○年協会展出品の《新緑風景》(1929年)などに用いられた点描的な技法は、直截な感情移入によるものではなく、むしろ奥行きや画面上の安定をはかる意図的なものが窺える。そして、その筆使いは、概ね同系色の点あるいは断続的な筆触によるもので、色彩と密接に関連する西洋の点描法でないことは明らかであり、むしろ山水画における点法のひとつである米点の効果に近いものを感じさせる。

 鉄斎について関心を持った近代の画家たちは多い。なかでも正宗得三郎(1883-1962)や梅原龍三郎(1888-1986)、岸田劉生(1891-1929)などがよく知られており、前田寛治の仲間では里見勝蔵(1895-1981)がいた。彼らが鉄斎の芸術に対して一様に注目した点は、ひとつは自由な表現方法とでもいうか、大胆な筆致と画面構成の巧みさであり、また、墨色を含む色彩感覚の素晴らしさについてであった。そして、その鉄斎の自由奔放な造形表現活動のなかに、ヨーロッパの近代美術の新しい潮流に触れたときと同じ感動の煌きをみいだしたのであった。とくにフォーヴィスムや表現主義の傾向を示した画家たちは、鉄斎の、内面性を表出させ流動的な筆致で描く作品群のなかに、彼らの芸術上の方向性や表現上の技法などのうえで共感を持ったようだ。

 では、寛治自身は鉄斎についてどの様に思っていたのであろうか。このことについては、次の文献から知ることが出来る。それは、昭和2年、彼の郷里で開催された第1回砂丘社展の折、その宣伝と美術啓蒙を兼ねて、地元の新聞に寄稿したエッセイである。ここには日本画と洋画の違いについて語り、西洋から学ぶ絵画の必然性を論じている。そのなかに、南画(文人画)の優れた点を述べたところがあり、一例として次のように鉄斎作品を取りあげている。

「鉄斎の絵を見ると、小刻みの横の線に従う気合が無数に動いています。即ち平和な情合豊かな気持ちでありますが、その無数の横の線の中に唯一本太いまっすぐな縦の線(気合)が画幅のてっぺんから底までとおっています。それは、あるものは飛滝となって、種類こそ千差万別ですがその太々とした縦の一線が無数の愛情を統御する意志の現われとなって人生の調和を得させ、絵をして鉄斎の画たらしめ従って鉄斎をして鉄斎たらしめているのでありますが、この様な気稟が表現される様になって、そこで初めて真実にその人の芸術が確立されたという事ができるのであります。」(「砂丘社展のまえに──日本画と洋画の観照」『鳥取新報』昭和1年10月24日〜26日連載から抜粋)。

 このエッセイからは、寛治が鉄斎の芸術を、いかに高く評価をしていたかよく理解できるが、彼が、いつ、どこで鉄斎作品を見たのかは明らかとされていない。しかし、寛治がフランス留学を終えて帰国するのが大正14年の夏であり、この年の2月から10月にかけて前年の大晦日に亡くなった鉄斎の特集号が、『みずゑ』、『アトリヱ』、『中央美術』などの美術雑誌で組まれており、こうした状況から考えても、寛治が鉄斎に関する情報を得ることは、充分に可能であったと考えられる。

 寛治の画業において点描的な筆触と、未完とも思われる画面空間、そして、寛治が力作を評価するときに好んで使う言葉「不思議さ」、その不思議さが漂う作品が登場する時期が、昭和3年頃である。この時期、つまり彼の後期の作品を理解するのに、寛治たちと行動を共にした当時の研究者の分析は、寛治が主張する西洋の写実理論にフォーヴィスム的要素を加え、さらに初期の仕事にみせた詩情性の復活という解釈がなされている。

これは当時の研究者が、寛治たちが創設した「一九三○年協会」の活動を「フォーヴィスム運動」として、より鮮明な位置付けをし、同協会の存在意義を高めようとする戦略的意図が働いているように思われる。その意図が、寛治の制作をフォーヴィスムへの接近という分析へ連結させているのではと推測されるのである。ただこの解釈も、単にフォーヴィスムへの接近というだけでは、いまひとつ明快さはなく、理解に苦しむところがあった。しかし、ここに、寛治が、南画や鉄斎作品に関心を示した事実を付け加えることによって、後期作品のあらたな解釈として、その創造の秘密が窺えるのではなかろうか。今後の研究課題として、さらに慎重な調査を進めたいと考えている。

【 B.K.】 

 

 《棟梁の家族》1928年 油彩、画布 鳥取県立博物館蔵

 《裸婦》1928年 油彩、画布 神奈川県立近代美術館蔵

 《二人の労働者》1923年 油彩、画布 大原美術館蔵

 

1999年7月2日(金)−8月22日(日)

愛知県美術館[愛知芸術文化センター10階]

午前10時〜午後6時 金曜日は午後8時まで

(入館は閉館30分前まで) 月曜日休館

観覧料=一般1,000円(800円)

高校・大学生700円(500円)

小・中学生400円(200円)

*( )内は前売り、及び20名以上の団体料金

*身体等に障害のある方、および付き添いの方には割引制度があります。

  

記念講演会

7月10日(土)「前田寛治のレアリスム」
講師:富山秀男(石橋財団ブリヂストン美術館長)

7月24日(土)「父を語る─『病中日記』刊行を機に」
講師:前田棟一郎(前田寛治子息)

会場:愛知芸術文化センター12階 アートスペースA
時間:ともに午後1時30分〜3時