花ある老い─「恋重荷」寸感

 〈劇的なもの〉を成り立たせるのは人間関係であり、さらに人間関係の中で最も劇的なものの一つは男女間の〈恋〉と呼ばれる心理と行動であることは言うまでもないところだろう。それゆえ、古今を通じて様々な舞台形式を借り、実に多様な恋愛のあり方が演じられて来たし、これからもまたそれが続くことになるにちがいない。能という日本の伝統的な舞台芸術においてもその例外ではなく、現在、さかんに上演されるものにもやはり男女間の愛憎や心理的葛藤を主題とするものが多い。

 今回、〈ブラック・シアター能〉としてとり上げられた「恋重荷」も、もちろんその代表的なものの一つである。

 能楽鑑賞の手引き書をひもといてみるとすぐわかるように、能の曲目名は、舞台に登場する主要人物名、地名あるいはそれに因む自然現象や行動などから採られたものがほとんどであって、この「恋重荷」のように、すじ立ての本質を鮮やかに象徴しつつ、現実の舞台にも登場する物体の名を用いた例は他にほとんど類を見ず、ほぼ六百年を経てなお現代に通用する作者・世阿彌の詩的な言語感覚にまず驚く。

 〈ブラック・シアター能〉の企画には、能の基本的なところを理解してもらい、身近な現代の舞台芸術の一つとして楽しんでもらおう、という意図がこめられているのだろう ─ 今回もそれに向けてのいくつかの配慮が見られた。

 たとえば、能楽にはとくに深い見識を持つ歌人・馬場あき子の講演(1月9日)や公演直前に行われた藤田六郎兵衛(笛方、藤田流宗家)と観世銕之丞(シテ・地謡方、1月28日)あるいは大槻文蔵(シテ・地謡方、29日)の対談、それに女優・渡辺小百合による語り読み(一人芝居にも似た能本=上演台本の朗読)という新しい試みを加えたのも、充分な基礎知識を持った上で、能の本公演に臨んでもらおうという計らいであり、入門者には親切な企画だったといえよう。能楽愛好者の幅を若者の層にまで拡げる努力を地道につづけることも大切なことだ。

 「恋重荷」のあらすじを一と口に言えば、高貴な女御に一方的な恋をした老人の哀れな末路と怨恨の物語である。白河院・御所庭園の菊手入れをする身分の低い老人・山科荘司は、女御に一と目惚れして恋心を抱いている。それを聞いた女御の侍臣が荘司を呼び出すところからこの能は始まる。用意された荷物を持ち上げて、庭を百度、千度と廻るならば、女御が姿を見せる、と侍臣は告げる。荘司は喜んで、この荷を担おうとするが重くてびくともしない。それもそのはず、この重荷は石を錦に包んだもので、年齢とその非力を思い知らされるばかりなのだ。老人は結局、もてあそばれていることに気付き、精魂盡き果てて自害してしまう。これを知った侍臣はその怨念を恐れて、女御に一と目でも見てやるようにすすめる。彼女は重荷のそばに立ち現われて後悔するのだが、そこへ老荘司の亡霊が鬼となって現われ、深い恨み心を述べて女御を責める。しかし女御の弔意にその恨みも次第にゆるしに向かい、結局は以後、女御の守護神になることを約束して消える、というところで終る。

 前場では、そうした老若の年齢差、身分の差、思い入れの差から生じる恋への希望と絶望の落差を鮮明に描き、後場では、生死の境を越えてまで続く遺恨の深さと、ついにはそれをゆるすことになる男心の切なさを見事にクローズアップしているのである。

 実はこの「恋重荷」には「綾鼓」(古名・綾の太鼓)という作者不明の古い類曲があり、世阿彌がそれを翻案したのだと言われている。高貴な若い女御に年老いた荘司が一方的な恋をする点は同じなのだが、古曲の方は重荷を持ち運ぶのではなく、はじめから音の出ない綾を張った鼓を一生懸命打たせるところと、女御を恨み通してついにゆるさない、というところに差異がある。三島由紀夫の「近代能楽集・綾の鼓」はこの古曲の方を基本に置いている。また「恋重荷」は観世、金春流の曲目、「綾鼓」は宝生、金剛流の曲目として継承されている事実を世阿彌の翻案が世にどう受け取られて来たかを示す能楽史の余翳としてみるのも興味深かろう。

 この両曲を現代に引きつけて比較してみると、「恋重荷」に見られる世阿彌の〈老い〉に対する洞察の深さに注目させられてしまうのだ。重荷を持ち運ぶという身体性に最も直結した行為。その重荷が象徴する、老人のむなしく深い恋心と若い女の虚栄の布に包まれた重い残酷さ。そうした老いの身体と心理に切実に迫る要素の濃厚な導入は、今日の問題に驚くほど強く響くものを生み出したのではないだろうか。世阿彌の「風姿花伝」の中には、老人を演ずるに当たっての注意を述べたところがあって、老人らしさを単純に表現するのではなく、衰える身体をどう克服するかという心理を反映させた所作こそが大切だと強調している。「恋重荷」の最後に見せる老いた荘司の〈ゆるし〉の心も、世阿彌のねがった〈花ある老い〉に通ずるものとして読み取ることが出来るように思えるのだ。

 大槻文蔵、観世銕之丞の日替りによる荘司とその亡霊(シテ)も、恋に破れる老人ながら〈老木に花の咲かんが如し〉という世阿彌の望む老いの姿を見事に演じた。また、藤田六郎兵衛の笛をはじめ小鼓、大鼓、地謡もこの特異な恋のなりゆきに引き緊った悲傷感を与えてくれた。

馬場駿吉
 

写真/安井豊彦