魔法の庭 ─詩とかたちのフーガ

ファウスト・メロッティ展

 メロッティは日本を訪れたことはありません。しかし、私が知る限りで、日本をテーマにした作品を二点作っています。いずれも、一般的な外国人が思い浮かべる日本文化の典型的なイメージを超えるものではありませんが、一つは《サムライ》、もう一つは展覧会にも出品される《パリスの審判のカツラを被った芸者》です。ギリシア神話と芸者の組み合わせを見て、みなさんはどう思われるでしょうか。

 

ファウスト・メロッティの旅

─ 「ギリシアの彫刻家の鑿が響きを止めた時、地中海世界には夜の帳が降りた。長く続いた闇は、ルネサンスの(反射光による)下弦の月で明るくなった。今では、地中海にはそよ風が吹いている。これが夜明けなのだと、あえて信じるとしよう。」(1935)

─ 「夜明けだと信じていたそよ風は、戦争の風だった」(1967)

─ 「私は亡命者です。初めて触れたピアノやおもちゃ、蜘蛛やブドウ畑に囲まれた少年時代の夢が息づく谷から、フィレンツェに亡命者として移り住みました。でも、少年だった私にはフィレンツェは楽しい町でした。その後、ミラノが私の故郷となりました。しかし、どんな避難場所でも、それを愛する心の準備をする亡命者として生きています。」(1979)

─ 「戦争は私に内面的な大きな苦痛を残しました。絶望する人間の姿を心の中に思い浮かべながら、抽象美術を制作するのは不可能なのです。」(1985)

 イタリアの詩人彫刻家メロッティの85年間はさまざまな風に吹かれてさまよい歩いた人生でした。イタリアの各都市に関わりを持ったメロッティの生涯を簡単に紹介します。

ミラノ(活動の中心地)

 メロッティの活動の中心はミラノでした。ミラノ工科大学で機械工学を勉強した後、美術アカデミーに入学しました。彼が学んだヴィルトの彫刻教室で、生涯の親友となるフォンターナと出会いました。ただし、二人の彫刻スタイルは全く異なります。1950年代にキャンバスに穴をあけたり、ナイフで切り裂いたフォンターナの絵画や彫刻が周囲の空間に攻撃的に働きかける「動」的なものであったのに対して、メロッティの彫刻は音楽の響きを視覚的に伝える「静」的なものでした。しかし、「二人の間には揺るぎない信頼感と尊敬があった」とメロッティは語っています。

 美術アカデミーを卒業してまもなく、有名な陶器商リチャード・ジノリ社の陶器デザイナーとして活躍するとともに、「近代建築」を標榜する若い建築家が設計した建物のための彫刻をてがけ、近代建築と具象彫刻を結びつける新しいモデルを提唱しました。1935年にメロッティは、複数の旋律を調和させる音楽の作曲技法「対位法」をモデルとした〈彫刻〉シリーズをミラノで発表します。円や楕円などの形を立体的に石膏のパネルに繰り返し並べたり、あるいは金属の立方体の骨組みの内側に球や円盤を規則的に並べた作品でした。イタリアで評価されるのには30年の月日が必要でしたが、フランスとスイスではすぐに高い評価を得ました。

 1940年代から50年代にかけては、彼はインテリア・デザイナー兼陶芸家として名が知られ、イタリアを代表する建築家ジョ・ポンティを中心に世界各地で建築家とさまざまな協同作業を行いました。メロッティは1950年代の終わりから、アトリエで細い真鍮を組み合わせる彫刻に取り組みます。これは華奢で可動性のある真鍮の構造体に、陶球や金属片をぶら下げたり、金属のメッシュや彩色された布などを組み合わせるもので、その制作はミラノで亡くなる直前まで続けられました。

 1967年にメロッティが30年代の作品とともに戦後の作品を発表して、若い作家たちに新たな衝撃を与えたのもミラノでした。

ロヴェレート(生まれ故郷と青年時代)

 イタリア最北部に位置するロヴェレートは、彼が生まれた当時、オーストリア・ハンガリー帝国領にあり、イタリアとオーストリアの二つの文化が接する場所でした。モーツァルトも滞在するなど、かねてから音楽との結びつきが深い都市として知られています。世界的なピアニスト、マウリッツィオ・ポッリーニは彼の甥にあたります。ロヴェレートが美術の都市になったのは、1919年に未来派の画家デペーロが故郷に戻ってからのことです。ミラノに住んでいたメロッティはしばしば帰郷して、デペーロが妻ロゼッタと主宰した「未来派芸術の館」での「未来派の夕べ」にはピアニストとして参加しました。デペーロとの交流が、若いころの彼を当時の最先端のヨーロッパ芸術に接近させました。同郷の美術評論家で甥のベッリ、建築家ポッリーニ(マウリッツィオの父)、ベルリンで学んだバルデッサーリ、リベラとともにイタリアの30年代の建築と美術に新しい旋風を巻き起こしました。

フィレンツェ(少年時代)

 第一次世界大戦が勃発すると、1915年にメロッティ家はロヴェレートを離れ、フィレンツェに移り住みました。ピアノとオルガンの練習と和声学を学びつつ、美術の都で美術に親しみました。とりわけ、メロッティを強くひきつけたのが、ドナテルロ作《聖ゲオルギウス》のもつ「彫刻の周囲にある沈黙の力」でした。フィレンツェでは1981年にフォルテ・ベルヴェデーレで回顧展が開催されました。この都市に対する彼の敬愛の念は、ミラノで息をひきとった彼が、希望してフィレンツェ近郊エーマに埋葬されたことにも現れています。

トリノ(デビュー)

 ミラノ工科大学を卒業した彼は、ローマで音楽を学ぶことも考えましたが、結局、叔父が働いていたトリノのカノニカのアトリエで彫刻の勉強を始めました。また、トリノでは1935年にイタリアで最初の抽象美術のグループ展が開催され、メロッティも参加しました。

ローマ(ファシズム)

 彼は青年時代をムッソリーニが支配するイタリア・ファシズムの時代(1922-1943)に送りました。ムッソリーニはローマでファシズム政権20周年記念を祝う博覧会を計画し、メロッティは彫刻の注文を受けました。最終的な仕上げと設置の段階で彼はローマに移り住みましたが、ファシズム政権が崩壊しました。その後、イタリア国内がほぼ内線状態に入り、実現されたのは計画の一部でした。ただし、悪いことばかりではありません。1941年に妻となる女性にめぐりあいました。また、1976年以降はローマにも住居とアトリエを構えていました。1983年にはローマの国立近代美術館で回顧展が開催され、イタリアを代表する彫刻家としての名誉を得ました。

ヴェネツィア(再評価)

 1935年に発表した〈彫刻〉シリーズの前衛性が認められる契機となったのが、1966年のヴェネツィア・ビエンナーレでの展覧会「初期イタリア抽象主義の様相──1930-1940」展でした。したがって、先駆的な彫刻家としての名誉を挽回したのは65歳を過ぎてからのことになります。20年後の1986年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、オープニングの前日にミラノで亡くなった彼の業績を讃える展覧会が急遽開催され、彼には金賞が与えられました。

【 M.H.】

 Photograph by Ugo Mulas

 

ファウスト・メロッティ展

1999年4月23日(金)〜6月13日(日)

愛知県美術館[愛知芸術文化センター10階]

午前10時〜午後6時 金曜日は午後8時まで

(入館は閉館30分前まで)

休館 日=毎週月曜日(5月3日は開館)、5月6日(木)

観覧料=一般1,100円(900円)

高校・大学生800円(600円)

小・中学生500円(300円)

*( )内は前売り、及び20名以上の団体料金

*身体等に障害のある方、および付き添いの方には割引制度があります。