松本竣介の絶筆

 1948年5月の《彫刻と女》《建物》は、松本竣介の最後の作品である。彼は終戦直後からの無理がたたって、前年の暮れから体調を崩していたが、周囲から休養をすすめられたにもかかわらず制作を続けていた。《彫刻と女》《建物》は、5月25日に開会する「第2回美術団体連合展」に出品するため、高熱をおして描き続けられた。2点が完成したのは開会まぎわであり、ただちに家族の手で搬入され、かろうじて展覧会に間に合ったという。まもなく床に伏した竣介は、展覧会を見にゆくことができぬまま、気管支喘息による心臓衰弱のため、6月8日に36歳の若さで世を去った。

 1947年の秋から暮れにかけて、竣介には辛い出来事が重なった。10月には長女の洋子が病気のためわずか2歳6か月で亡くなっている。展覧会のために岐阜に出かけていた竣介は、娘の危篤の知らせを聞いてすぐに東京へ戻るが、臨終に間に合わなかった。そして12月には、終戦直後から生計の支えにしていた通信教育の会社が解散する。竣介はいずれこの会社を発展させて出版社とし、戦前に妻と二人で短い間発行した『雑記帳』のように自分の編集による雑誌を再びつくることを望んでいたが、この希望は果たせぬままに終わった。さらに年の暮れには、風邪をこじらせて肺炎にかかる。

 1948年はじめに描かれた一連のデッサンは、この頃の竣介が心身とも疲れ果てていたことを想像させる。そこでは、暗い幻想をそのまま吐き出したかのように、粗い線描による断片的なイメージが絡みあっている。一旦描かれたイメージが、なぐり書きのような線で抹消されているところさえあり、それは内面の混乱を示しているようにも見える。

 2月末に次女の京子が生まれたことによって、竣介は心の安らぎを取り戻したに違いない。しかし彼の肉体はすでに限界に近づいていた。彼がみずからの死を予感し、自分自身への墓碑として2点の作品を生涯の最後に描いたと考えても、決して不自然ではないだろう。2点の絶筆は、この年はじめの一連のデッサンとは対照的に、心にしみ入るような静けさと清らかさに包まれている。《彫刻と女》は、画家自身を象徴するような彫刻をいつくしむ乙女を描いている。白い薄布を身につけ、ほのかな青白い光に包まれている彼女の姿は、確かにこの世のものではない。また、竣介の親友だった彫刻家の舟越保武が《建物》について書いているように、この教会に似た白い建物の右側にある暗い入口から、竣介が入っていったと考えるのも、ごく自然なことのように思われる。

【 H.M.】 

《彫刻と女》1948年5月 油彩、画布 116.8×91cm 福岡市美術館

《建物》1948年5月 油彩、板 60.5×73cm 東京国立近代美術館
  

没後50年  松本竣介展 

1999年1月8日(金)− 2月21日(日)

愛知県美術館

午前10時〜午後6時 金曜日は午後8時まで

(入館は閉館30分前まで) 月曜日休館

観覧料=一般1,000円(800円)

高校・大学生700円(500円)

小・中学生400円(200円)
*( )内は前売り、及び20名以上の団体料金

●記念講演会

1月23日(土)午後1時30分〜3時

講師/田中 淳(東京国立文化財研究所)

会場/愛知芸術文化センター

12階アートスペースA