愛知芸術文化センターがオリジナル映像作品として製作した前田真二郎の『王様の子供』は、一見するとユートピア的システムとその“外部”をめぐるSF的寓話にみえる。豊かなテクノロジー社会とその外部の飢餓や貧困、エネルギーや資源の消費とその外部の有毒廃棄物、等々。だがここに何か現実的教訓を探し求めたりするのは見当違いだ。それらをプレテクストとして出現する“視聴覚的出来事”こそが作品の本質だからだ。

《眼を使わなくても見る方法があるのを知ってる ?

 耳で聞こえるものから像をつくっていくんだ。》

 さまざまな映像と音によって構成された『王様の子供』は、すぐれて聴覚的な、しかもポリフォニック(多声的)な作品である。そのSF的ヴィジョンは多くが“重なり合う声”によって喚起され、インナーブレイン(脳内)の映画とさえ感じさせる。男女いりまじったその声が、物語の記憶と速度を作り出している。(特に第3回アートフィルム・フェスティバルとイメージフォーラム・フェスティバル1998で上映されたバージョンは過剰に多声的だった。)

 《ユートピアの王様が私を作りました。私の身体は太陽の光で生きる、不老不死の身体だそうです。》と一人称単数の男声で語り始める声の主は《私は四人いるの。生まれた時から私は、四つの身体と気持があるの。》(女声)という四人一体で性別もない存在であるらしい。サウンドトラックに統合されたその四つの語る声が(差異を持つ四人の映像以上に)“私”の奇妙なリアリティと混淆感覚、そして身体の希薄さを体現し強調している。

《心を言葉に書き換える方法が見つかったからなんでしょ。

 みんな、身体が必要なくなったんだ。》

 対話し合う四つの声はテレパシーのようでもある。ときに心のイメージを読み合ったりするので、声は現実には発音されない、心の声の交信なのかもしれない。つねに髪の毛で隠された目には目隠しのような飾りをつけ、彼らが盲目ないし視覚を使わずに見ることを暗示する(アリの国にたくさん生まれた“目の見えない子供たち”のように)。

 前田真二郎のこれまでの作品にも、そうしたイメージと言葉の主題が含まれていた。初期から独特のクールさとメタ意識(メデイアの自己言及性)の中で、見る/見られる視線の関係性など視覚に関わる観念的モチーフを扱う作家だったが、ほとんど字幕だけで“私”という非人称的存在(「私は光、私は言葉」)を実現させイメージと言葉の関係を体験的に考えさせた力作『L』(95年)や点字発明者ルイ・ブライユのエピソードと点字を視覚作品の中で扱う逆説的な(盲者には作品が見えず、点字の映像も触れない)『Braille』(97年)等が特にこの作品とつながる。

《この世界は、言葉とタンパク質でできている。》

 前田真二郎のメタ意識からすれば、《体を持たない》ユートピアの王様が自分(の仮の姿)に似せて作った子供たち、自分の記憶も消せるし何度でも生き直せる(生をリセットできる)この主人公たちとは、作者と作中人物の隠喩とも取れるし、おはなしすべてが虚構(退屈な子供たちのフィクションごっこ)とも取れなくはない。

 いずれにせよ、その希薄な身体感覚を視覚化し、《何をして過ごしたらいいのか途方に暮れている》この虚無的な被造物(クリーチャー)たちの《気分の晴れない、せつない気持》を視覚化する上で、画面外の声の活用と並んで、ポストプロダクションでの映像素材の加工処理も大きな役割を果たしている。おそらくデイヴィッド・ブレアの『WAX』(91年)のようにデジタル編集のプロセスで物語は再編され発展していっただろう。音と映像もたえず分断され組み直されたはずだ。デジタルビデオで撮影され、コンピュータに取り込んでノンリニア編集、最後に映画にキネコ変換されたこの作品の手法は、そのために必然的なものだったといえる。

(映像研究家)西嶋憲生 

 

*前田真二郎監督『王様の子供』は、「第3回アートフィルム・フェスティバル」(4月24日〜5月5日開催)にて初公開された後、「イメージフォーラム・フェスティバル1998」(東京、横浜、大阪、福岡で開催)でも上映された。なお、この作品は、公開後、音響面での改訂が施され、現在、愛知芸術文化センター・アートプラザ内ビデオ・ライブラリーで鑑賞することができます。