純愛の言葉と行動が問うもの
─ RSCの「ロミオとジュリエット」
シェイクスピア作品の多くは、それらが書かれてから、400年を経た今もなお、世界各地で頻繁に上演されつづけている
─ その事実だけでも、思えば驚異的だと言わねばならない。このほど、英国の名門劇団、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)がワールドツアーの演目に取り上げた「ロミオとジュリエット」は20世紀の代表的なバレエとしてもしばしば上演され、また、繰り返し映画化されて、「ハムレット」とともに最もなじみの深いものとなっている。本来の演劇としての公演も、時代の風によって演出が変えられたり、「ウェストサイド物語」のように飜案される、など様々なかたちで普遍化、現代化が試みられている。それと言うのも、この若者の悲劇的な純愛物語の中には、人間存在の本質にかかわる個人と家庭あるいは社会をめぐる問題が激しく渦巻き、それを突き破って疾駆し、悲しい最期を遂げる恋人たちの姿が時代を超えて鮮やかに示されているからなのだろう。
今回の愛知県芸術劇場小ホールでの公演は、演出がマイケル・アッテンボロー(父親はこの度、第10回高松宮殿下記念世界文化賞に選ばれた英国映画・演劇界の巨匠リチャード・アッテンボロー)。舞台は原作と異なり、第一次世界大戦前の北イタリア・小都市の下町という設定である。仇敵同士のモンタギュー家とキュピレット家は共にあまり豊かではなさそうで、それぞれの家に鬱屈する若者の粗野なエネルギーが時々戸外に溢れ出し、スパークし合うのだ。モンタギュー家のロミオはブラック(レイ・フェアローン)、キュピレット家のジュリエットはホワイト(ゾー・ウェイツ)と肌の色を変えた配役からは、設定された時空にこだわらず、多民族を抱える国が内包する問題と両家の間に立ちはだかる障壁の高さを重ね合わせ、それに束縛されない若者の愛の姿を一層明確化しようとする意図が読み取れよう。舞台装置は簡素だが、建物の窓の位置を変えたり、壁龕を出現させたりして、両家前の広場、居室、教会内などの場を手際よく変換し、この舞台の特質である時間の凝縮性、切迫性を高めているのはさすがだ。修道士の仲立ちによるひそやかな婚姻。両家間の報復殺人事件によるロミオの追放。父がすすめるパリスとの婚約を拒絶し、ロミオとの再会を願うジュリエット。それをかなえるための仮死薬服用とロミオの誤解による絶望と自死。そしてジュリエットも真の死を選ぶという悲劇的な結末に至るまでの運命のダイナミズムを瞬時のゆるみもなく表出した舞台だった。こうしたシェイクスピア劇を観ると、純愛にふさわしい言葉と行動の衰弱し切った現代の味気なさが一層痛切に感じさせられてしまうのだ。
馬場駿吉
世界でも有数の名門劇団であるロイヤル・シェイクスピア・カンパニ−(RSC)による「ロミオとジュリエット」。この公演にさきがけ、イギリス演劇が専門の安達まみ氏が、当時の劇場の模様、作品の背景などについて、RSCに留学経験のある野村萬斎氏が、狂言とシェイクスピア劇との接点、RSCの特徴やイギリス演劇界の現状などについて、レクチャーを行った。
シェイクスピア・レクチャー
『加速する愛の悲劇』より
6月7日:ア−トスペ−スEF
安達まみ(聖心女子大学助教授)
この作品の特徴は、運命と自由意志の錯綜にあるといえます。二人が仇敵の家の者と結婚しようとするのは自由意志、両家の抗争の中でロミオがジュリエットの従兄弟ティボルトを殺してしまうのは運命、ロミオとジュリエットを再会させる手筈を書いた手紙がロミオに届かなかったのは運命、また、二人が死を選択するのは自由意志といえます。ここで強調されなければならないのは、二人が決して運命に翻弄されたのではなく自由意志を貫いたのだということです。
また、この自由意志を先に示すのは、結婚のことをもちだすジュリエットであり、ロミオが自由意志を初めて示すのは、ジュリエットが死んだと知らされ、ヴェロ−ナに戻れば死罪となるにもかかわらず墓所に行こうと決心する場面です。このように女性が主導権をとるように位置付けられた背景には、イギリスの16〜17世紀以前のカトリックの時代には、独身を通す修道生活が最上のものとされ、政治や戦争などの公的生活の出来事に題材をとった作品が評価されたのに対し、それ以降のプロテスタント優勢の時代には結婚生活にも価値があるとされ、結婚、恋愛といった私的生活の中で女性が活躍するという作品が評価され始めたという状況があります。
古代ギリシャのアリストテレスは、「悲劇の結末は、観客にカタルシス(浄化作用)をもたらさなければならない。」といっていますが、「ロミオとジュリエット」では二人は死んでも、人間の自由意志が肯定されるため、この悲劇の定義に掲げられた観客反応をさそう作品といえます。
『野村萬斎RSCを語る』より
6月9日:ア−トスペ−スA
野村萬斎(狂言師)
シェイクスピアの上演のされ方ですが、現在は、台本(せりふ)はかえずに、演出をかえることにより現代にどのようなメッセ−ジを伝えるかに関心が持たれており、同じ作品でも演出家によって様々な版があります。昔は、「リア王」がハッピ−エンドの作品として上演されたりしたこともありました。これは、戦争により一時歌舞音曲が禁止され、その間に古典的なやり方がなくなってしまったことが一因としてあるようです。
次に、シェイクスピア劇と狂言を比べてみると、例えば、シェイクスピア劇にはせりふのエロキュ−ション(抑揚)に決まりがありますが、これは、狂言にも二字目を張るという決まりがあるのによく似ています。イギリスでは、客のことを観客といわずに聴衆(audience)というように、シェイクスピア劇は特に、視覚的だけではなく、文語体のせりふの語りをも楽しむ「聴く演劇」の要素を強くもち合わせています。狂言も、しゃべる、語る、謡うという性質をもっていますが、これはシェイクスピア劇との共通点だといえます。
逆に、例えば怒りを表現する場合に、シェイクスピア劇の役者は台本を読んで意味をとらえてから表現しようとするため、体から反応していくことが少ないのですが、狂言ではせりふとともに、「型」をつかって体で表現することが多く、これは相違点だといえます。
写真/安井豊彦
|