愛知県美術館の夢と現実

美術館の挑戦

 愛知県美術館が開館して5周年にあたる1997年度の最後の最も重要な記念事業として開催した「近代美術の100年──愛知県美術館コレクションの精華」展は、実は展覧会であって展覧会ではなかった。そして「精華」とは即ち「成果」の意であった。1992年秋の開館以来、愛知芸術文化センターの10階に位置する愛知県美術館は、企画展の規模と性格によって多少の変化があったとしても、常に展示空間をおよそ二分して企画展と所蔵作品展示にあててきた。「近代美術の100年」展では、開館以来初めて10階の展示室すべてを一つの展覧会、実は所蔵作品展示のために使用した。この企画には様々な意味がこめられている。美術館活動の中心は収集にあり、そのコレクションをこそ多くの人に知って頂きたいという美術館員の切実な願いを表明すること。展覧会名の示すところは、愛知県美術館のコレクション形成の方針が近代・現代美術であること。美術館とは、このような形で所蔵作品の常設展示を行うことにこそ本来の姿があるのではないかという主張を暗示すること。そして、美術館準備室以来9年にわたって愛知県美術館の創設と育成に情熱を注ぎ続け、この3月末をもって退任された浅野徹前館長の業績を顕彰すること──前館長にとっては自身の努力の成果を検証すること──でもあった。

 この全館所蔵作品展示を「近代美術の100年──愛知県美術館コレクションの精華」展として開催したことは、言わば愛知県美術館の一つの挑戦であった。開館以来わずか5年という幼児のような美術館が、そのコレクションだけで近代100年の美術の展開を示そうというのは実に大胆にして無謀な試みと言うべきであったかも知れない。「精華」とはその陰に豊富なコレクションがあってこそ言えることであろう。およそ10年におよぶ新美術館の創設と育成の試みの成果は、果たして精華を咲かせることができたであろうか。

コレクションの形成

 日本の多くの公立美術館がそうであるように、愛知県美術館も、それだけで常設展示が可能であるような、既にある程度まで作りあげられたコレクションに基づいて創設されたのではなかった。たしかに愛知芸術文化センターの前身で1955年に設立された愛知県文化会館には美術館部門があり、そのコレクションは現在の愛知県美術館に引継がれている。工芸家藤井達吉から寄贈された彼自身の作品と彼の収集作品からなる1460点にのぼる工芸や絵画作品と、1959年以来始められていた収集活動によるおよそ1000点の近代日本美術を中心としたコレクションである。しかし、この旧美術館が所蔵していたコレクションは、「日本近代美術の流れを辿る上で見落とすことのできない作品を多少含むものの、<国際的視野>の欠如と<同時代性>の欠落が大きな課題」であると指摘されていた。旧美術館は、展覧会場あるいは貸ギャラリーの性格が強く、コレクションを中心とする本来の美術館ではなかったのである。新たな本格的な愛知県美術館の設立のために収集活動が始まったのは1988年である。美術館の性格を近代・現代美術館とし、収集の対象を明治以降の近代日本美術と20世紀の西洋美術、そして現代の美術に定めて積極的な活動が開始された。そして10年を経過して、ここに紹介しているコレクションだけで「近代美術の100年」を示そうという展覧会を開催した1997年度末には、新収集作品は732点に達していた。

美術館の意味

 美術館の収集活動を左右するのは、明確な収集方針の有無、それに基づいて活動する学芸員の能力、そして言うまでもなく収集を実現する購入資金である。しかし同時に極めて重要なことは、美術を愛し美術館活動に共感を寄せる多くの人々の有形無形の支援である。企業あるいは個人、また規模の大小に拘わらず、購入資金の援助、作品の寄贈、コレクションの寄託などの眼に見える支援は美術館活動にとって欠くことのできない要素であるが、美術館の活動を見守り、美術館に親しく訪れ、コレクションの充実を喜び、コレクション中の名作を自らの財産として誇りとするような人々の存在にまさるものはない。美術館はこのような人々の愛によって存在し、それを獲得するのもまた美術館の活動の如何によっている。これは終りのない戦いである。新設された美術館の職員は、数十年あるいは百年後の美術館の姿を思い描きつつ活動すべきである。美術館を育てるのはたゆみない美術館員の活動の継続と蓄積である。一見華々しい事業も活動の要素ではあるが、それが着実な美術館の成長に寄与するものでない限り無意味である。美術館の果たすべき役割について実に多くの論議が盛んである。社会教育機関としてなすべきこと、求められることは多岐にわたっている。しかし、すべては来館者にいかに感銘深い芸術的な体験の場を提供することができるかという一点にかかっている。それを可能にするのは収集作品の質の高さであることは言うまでもないであろう。

活動の理念

 昨年の秋、愛知県美術館でも開催された「20世紀美術の冒険」展は、アムステルダム市立美術館のコレクションによる展覧会であった。アムステルダム市立美術館は、欧米においても最も早くから現代美術館として活動を続けてきた美術館である。そのコレクションによる展覧会の内容は、100年におよぶこの美術館の活動と収集の歴史、その成果を示すものであった。館長のルーディ・フックスは、「美術館とは、二つの手で10個、15個さらに多くの色のついたボールを同時に宙に浮かせるジャグラーのようなもの」、つまり、多様な美術活動を、国家の枠にとらわれず、流行に左右されず、対置比較できる機会を提供する役割を担うべきであると言っている。そして文化の多様性を保証し、商業主義と大衆的な流行からの自由を確保することに公立美術館の存在意義を見出している。これはアムステルダムという都市の、そしてオランダという国の特有の美術活動を重視しないという意味ではなく、むしろ地域における前衛的な美術活動をも積極的に取り上げながら、常にそれを国際的な視野の中で比較しうるように努めなければならないということである。翻って、日本の一公立美術館である愛知県美術館の活動の理念は、愛知県の、中部地方の、そして日本の近代・現代美術と、広く国際的な近代美術の展開および現代美術の活動との関係について、全く同じことが主張されなければならないであろう。

コレクションの評価

 さて、「近代美術の100年──愛知県美術館コレクションの精華」展は、どのような評価を受けたであろうか。およそ三千平方メートルにおよぶ展覧会場は、戦前と戦後の二つの時代に大きく二分した上で、日本画、洋画、西洋美術、版画等の展示区画を設けながらほぼ年代順に構成し、三百余点の作品が展示された。「〈国際的視野〉の欠如と〈同時代性〉の欠落」の反省の上に立って、新たな収集方針のもとに10年にわたって続けられた収集活動の成果、その現実の姿が展示作業を進めて行く過程で自ずから明らかになっていった。形成されつつあるコレクションの性格は、展示作品によってかなり明瞭な影像を結び始めている。しかし展示作品それぞれの関係は、時間と空間(時代と地域)の座標系に疎密さまざまに散乱している点のようである。それぞれの展示区画で、あるいは日本画、あるいは西洋絵画の展示構成にあたった学芸員たちは、時に誇りと喜びをもって作品の選択に苦慮し、また当然のことながら「欠如」と「欠落」を痛感したことであろう。「ここのコレクションには、二十世紀美術をとらえる視野の広さがあると同時に、日本の近・現代美術の展開を改めて見直させる一つの契機が秘められている」(前京都国立近代美術館長、富山秀男)という讃辞は、むしろ理念に対する評価と受取るべきであろう。「さらに点から線へ、線から面へと一層の厚みを加え、特色あるコレクション作りを息長く続けていくことをこそ願っている」(同上)という言葉に、愛知県美術館コレクションの現実に対する適切な評語を読み取らなければならない。

美術館の生命

 かつて国立西洋美術館が開館30周年を迎えたとき(1989年)、当時のルーヴル美術館長ミシェル・ラクロットは記念式の挨拶の中で国立西洋美術館を「ルーヴルの孫」と表現した。松方コレクションの寄贈返還にまつわるさまざまな思いから親しみをこめてそのように表現したのであろうが、それは同時に活動と収集の対象を西洋美術とする我国唯一の国立美術館のコレクションに対する率直な評価でもあった。愛知県美術館がパリの国立近代美術館やニューヨークの近代美術館のエピゴーネンとなるのではなく、その活動の内容と質において孫たり得るほどに成長するには時を必要とする。近代美術とその展開としての現代美術を活動の対象とする美術館は、過去と現在の美術に対して常に柔軟な眼を持ち続け、流行に敏感でありながらそれに追随せず、完成することのない未来図を日々描き続けなければならない。このような美術館の活動の理念を実現するために欠くことのできないのは、美術館を愛し支援する多くの人々の存在であることを繰返し強調しなければならない。愛知芸術文化センター内の8階を占める美術館ギャラリーは、愛知県美術館が管理する貸会場であるが、日展を始めとする団体展の数多くの入場者の方々の中にも、まだ、すぐその上にある美術館の存在とそのコレクションをよく理解して頂いていないという現実がある。美術館の生命はそのコレクションにあるということは、日本においてはなお主張し過ぎることはないのである。

夢と現実

 この展覧会を10階の美術館展示室すべてを使って開催したことが、上に述べたような様々な現実に対する愛知県美術館の一つの挑戦であったわけだが、この開催期間に合わせて実施した数多くの普及教育活動も、開館以来5年半の中で際立っていた。二つの記念講演会を初め4回の定期講演会もこの会期に合わせ、ギャラリー・トーク、先生方のための説明会、小中学生のための鑑賞会等を可能な限り度々実施した。この展覧会にかけた学芸員たちの熱意と活動は賞賛に値するものであった。またこの計画に合わせて準備し実現したもう一つの挑戦は、コレクションのガイドブックの刊行であった。これをよく見る名作選カタログとしてではなく、展覧会に与えた名称と同じく「近代美術の100年」の書名をもつ近代美術史概説書として編集した。挿図に使用した作品はすべて愛知県美術館コレクションから選び、本文の原稿は学芸員のすべてが分担執筆した。客観的かつ批判的にこれを見れば、不遜な試みというべきであろう。いま読者が手にしている愛知芸術文化センターの広報誌である『AAC』24号の表紙デザインは、そのガイドブック『近代美術の100年──愛知県美術館のコレクション』から採られている。そこには当館コレクションの性格と現在のありのままの姿がはっきりと示されているばかりでなく、学芸員たちの資質と能力までも露わにされている。まことにこの展覧会は、コレクションの展示にとどまらず、広報・普及教育・調査研究にわたる美術館活動のすべてに関わる愛知県美術館の持てる力を如実に反映するものであった。愛知県美術館の夢と現実がここにある。

愛知県美術館長 長谷川三郎 


 

作品左上段から

岡 鹿之助《窓》1949年

瑛 九《黄色い花》1957-58年

速水御舟《西郊小景》1923年

パウル・クレー《女の館》1921年

北山善夫《はなはだ大きいと言うべきである》1984年

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《グラスのある静物》1912年

山口 薫《ボタン雪と騎手》1953年

高橋由一《不忍池》1880年頃

フランク・ステラ《リヴァー・オヴ・ポンズ IV》1914年

ポール・デルヴォー《こだま》1943年

ピエール・ボナール《にぎやかな風景》1913年

サム・フランシス《消失に向かう地点の青》1958年

北川民次《メキシコ三童女》1937年

グスタフ・クリムト《人生は戦いなり(黄金の騎士)》1903年

中村 彝《少女裸像》1914年

斎藤義重《作品》1962年

ジョージ・シーガル《ロバート&エセル・スカルの肖像》1965年

村井正誠《ゴルフジュアンの船》1929年

マックス・エルンスト《ポーランドの騎士》1954年

フランツ・ゲルチュ《ナターシャ IV》1987-88年

オノサト トシノブ《三つの黒》1958年

舟越 桂《肩で眠る月》1996年