川合玉堂と自然

 昭和19(1944)年、70歳の川合玉堂は牛込若宮町(現新宿区)から奥多摩の御岳へ疎開した。翌年自宅が戦火に焼失したこともあって玉堂は昭和32年に83歳で亡くなるまでこの地にとどまり、同36年青梅線御嶽駅近くの河畔に玉堂美術館が建設された。この美術館を訪ねる人々は、巨岩の乱立する清冽な川の流れやその両側に迫る山並など、玉堂の絵そのままのような自然の風景に出迎えられる。晩年に宗派をたずねられた玉堂は「大自然宗です」と答え、また、岐阜での少年時代は父親と山で景色を眺めながらお菓子や弁当を食べるのが楽しみで、その頃から自然が大好きだったとも述べている。

 玉堂が初めて奥多摩を訪れたのは、13歳から絵を学んだ京都を離れ、橋本雅邦を慕って東京に移った翌年、23歳の明治30(1897)年のことであった。奥多摩の渓谷に「ふるいつく程いい」と感激した玉堂は写生に通い詰め、さらに群馬や長野、山梨などへスケッチ旅行を重ねた。絵の構造や心持ちを重んじた雅邦の一門では、風景写生を積極的に行っていたのは玉堂だけであった。初期の玉堂は京都の円山・四条派と雅邦の狩野派を融合したとされているが、それを可能にしたのはこうした自然への態度であったといえよう。意外なことのようだが、それまでの日本絵画は各流派の様式が表に立ち、玉堂のようにあたりまえの、実景を感じさせる風景画は無かったのである。

 一方で玉堂は、近代の日本画からは失われていった墨や線の表現を重視した画家とされているが、そこでも伝統を守るだけでなく自然から新たに学んでいる。晩年に玉堂は「朝、太陽が山の向こうから出てくる。空だけが明るくなって、空の明るい反射であたりが、夜が明けてくるという時間ですね。岩の線を研究するにも、水のしわを研究するのにも、その時間が一番いいですね。岩の線でも、秘法を教えてくれるのですよ。水のこつこつした線まで見えるのですね。」と語っている。

 奥多摩をはじめ各地での取材に基づいているとはいえ、玉堂の風景は名所絵や特定の場所性の強いものではなく、彼の意識の中で組み立てられた無名の風景であった。白い日差しを浴びる冬木立、夕暮れに赤茶色に染まる山の端、水流とその青から緑への色の変化など、どの地方の山間にも見つけることのできる美を玉堂の芸術は教えてくれる。そして「どこにも見られた風景」が既ににかなり失われてしまっている現在、その教えはさらに貴重なものといえるだろう。

【T.M.】

川合玉堂展

愛知県美術館

午前10時〜午後6時 金曜日は午後8時まで

(入館は閉館30分前まで)

月曜日休館(ただし5月4日は開館)

観覧料=一般1,000円(800円)

高校・大学生700円(500円)

小・中学生400円(200円)

*( )内は前売り、 及び20名以上の団体料金

作品

左:《春風春水》1940(昭和15)年 絹本着色

   76.0×87.5cm 山種美術館蔵

中央上:《夏川》1953(昭和28)年 紙本着色

   62.0×90.5cm 個人蔵

右上:《宿雪》1934(昭和 9)年 絹本墨画淡彩

   112.2×147.3cm 日本芸術院蔵

右下:《峰の夕》1935(昭和10)年 絹本着色

   77.4×102.7cm 個人蔵