“身体”をテーマに、開館記念事業の一環としてスタートした「イベントーク」。5年目の節目となる今回は、舞踏の創始者・土方巽に焦点を当てた。

土方夫人で舞踏家である元藤火華子演出の舞踏公演『鏡のテオーリア』(多田智満子作)と、土方出演映画の上映、ジャンルを越えた多彩なゲストのトークから浮かび上がってきた土方の姿は、白塗り、ガニ股の舞踏家という固定されたイメージではなく、むしろ身体の思想家ともいうべきものであった。

 

萩原朔美 HAGIWARA Sakumi
(エッセイスト、「イベントーク」企画コーディネーター)

“身体”という言葉を考えると、僕はどうしても土方さんの姿が忘れられない。僕は当時まだ20代でしたけれど、何回か公演を観させていただいて、ものすごい表現が始まっている、ダンスというイメージがまったく変わってしまって、これは一体何だろうか、ギスギスと締めつけられている身体がそこに現れている、という感じがいつもしました。

 1970年、池袋のデパートで三島由紀夫さんがおつけになった「燔犠大踏鑑」というタイトルの、土方 展が開催されました。その時、僕は照明を担当したんですが、デパートの中に蔵を建てた。土方さんは、お蔵っていうのは明るくて暗いんだ、その明るくて暗い照明をやれ、と言われた。お蔵ってまっ暗なんだけど、小さな窓から一状の光がななめに切れ込んでいる。たしかに暗くて明るいという話はイメージとしては分かるのですが、照明はそれを具体化しなくちゃいけない。どういう明かりにするのか、思い浮かばなかった。土方さんのイメージを実現化するのは非常に困難なんですね。僕は、具体化する仕事とイメージとのギャップをものすごく感じた。それがとても印象的でした。

 

元藤火華子 MOTOFUJI Akiko
(舞踏家、土方巽記念アスベスト館館長)

 (舞踏公演『鏡のテオーリア』について)土方巽が亡くなりまして、来年(1998年)の1月21日が13回忌になります。土方の遺言といいますか、最後の言葉として「生は友、死もまた友。神の光を臨終している。」と、言い残して亡くなりました。それを私に説明した時、500段の階段があって、その先に神の光が輝いている。その輝いている光の所に自分は入ってゆくんだ、と言いました。私は、鏡のようにきらめく光を、土方や、土方の友達、三島由紀夫さんや、澁澤龍彦さんがいらっしゃる、彼方の世界と考え、また生成というものを鏡に感じ、多田智満子の著書『鏡のテオーリア』に触発されて、私にとっての“神話”をこの公演のテーマにしました。

 

大野一雄 OHNO Kazuo
(舞踏家)

 (土方巽の演出について)舞台の上に私がおりまして、ちょうどそこにピアノがあったんです。土方さんは「大野さん。」と言いますと、ピアノの所で、パッとバンザイしたわけです。なぜピアノの所でバンザイしたのか、それは考えてみると、天と地の結び合いです。あまりくどくど彼が話して「分かりましたから。」というのではなく、「大野さん。」という一言で、パッと火花が散って、天と地とのつながりがそこに成立した。言ってみれば、そんな関わりです。もちろんそれは、土方さんの一言がなければ、できなかった。

 

大野慶人 OHNO Yoshito
(舞踏家)

 私は土方さんが最初にお作りになった作品『禁色』(1959年)に出演する幸運を得たのですが、その前までは、いわゆるモダン・ダンスというものを父から少しは習っていたんです、3年間くらい。土方さんにお会いして、まず最初に言われたのが「体を固くして。」っていうんですよ。つまり、自分が志向してきたダンスと、まったく別のことを言われましてね。わけの分からないまんま、ただ言われるままに、鶏を受け取らされて、それは非常に重要な意味を持っていたのですが、その意味も分からず、「股の間に挟んで。」とか「闇の中を駆けさせて。」とか…。分からないから良かったらしいんですよ(笑)。分からないものを上手く使う、その使い方が非常にお上手でした。

 

宇野邦一 UNO Kuniichi
(評論家)

 土方巽さんは、フランスのアヴァンギャルドの代表的な成果であるシュルレアリスムにとても影響を受けました。土方さんの初期の文章は、日本のシュルレアリストたちが始めた詩的実験、特に瀧口修造のそれに、大きな影響を受けていますし、それによく似た文章を書いています。(中略)その中で一番特筆すべきことは、土方さんが踊ろうとしたことですね。シュルレアリスムの表現者として、舞踏をやろうとした人が、僕が知る限り、フランスでは、あるいは世界中でもほとんどいないはずです。詩人になったり、映画作家になったり、あるいは画家になったり、そういうアヴァンギャルドはたくさんいました。そしてアルトーのように演劇をやろうとした人もいましたが、不思議と土方さんは、他の何をやるでもなく、あらゆることに興味を持っていたのに、やはり踊りたかったんですね。このことを僕はとても不思議だと思うんです。

 

宇野亜喜良 UNO Akira
(イラストレーター)

 僕の記憶の中では、土方さんの踊りは、リズムに合わせないというか、音の持っているものをむしろ拒否するような不思議な動きという感じがしていた。けれども、今日『疱瘡譚』(1972年)の記録映画を観ていると、結構、リズムに合ってたりする。ただ、音楽が持っている意味と違うノリ方をしている所に特性があるな、という気がしました。そういうアヴァンギャルド精神が土方さんの中にかなり強くあったと感じるのは、モノが本来持っている意味と違う使い方をする点です。例えば、着物の着方を前後逆にする。普通、前で身頃合わせるんですけど、それを後ろで合わせて、着物のようでもあるし、洋服のようでもある、あるいはスタンドカラーの中国服のようにも見えるという、なんか不思議な着方をされている。僕が土方さんを好きな理由は、視覚的にすごく趣味がいいというか、不思議な発想をされるからです。

 

種村季弘 TANEMURA Suehiro
(評論家、ドイツ文学者)

 『日本霊異記』だったと思いますが、吉野の道を歩いていると、山中で朗々と詩吟を唱している人に会う、そばに行ってふっと見ると、その人は首がこっちを向いていて、お尻もこっちを向いている、という一節があります。正面から見るとあべこべになっている。『疱瘡譚』の着物があべこべだというのが、まさにそれです。しかし吉野の道で会った男は死者なんですね。死んだ人だから、もう首は元に返らない。ねじれの方向、ネジの方向、これは渦巻きですから、冥府を指している。ユングの精神分析学では、冥府、地獄を指しているわけです。しかし舞踏家は同時に生きていますから、返ってくるわけです。土方さんはよくねじれをやりますが、ねじれっぱなしではなく、戻ってくる。つまり、生と死が、ねじれの構造自体の中にあるわけです。(中略)たえずねじれの限界までいって、プツッと切れて、もう戻ってこれないかもしれない危ういねじれを、その極限を追求しているのが、土方さんの踊りではないか。

 

上映映画作品

●『へそと原爆』(監督 : 細江英公、1960年、モノクロ、20分、16mm)
土方巽主演のこの短篇映画は、写真集『鎌鼬』(1968年)に先立つ、写真家・細江英公との共同作業となった。戦後日本の実験映画の先駆をなす1本として評価されている作品。

●『疱瘡譚 四季のための二十七晩より』(撮影 : 大内田圭弥、1972年、モノクロ、95分、16mm)
土方後期を代表する同題公演の記録映画。開演前の場内アナウンスも含んだ公演の完全収録としては唯一の映画で、「山形国際ドキュメンタリー映画祭’95」でも上映されている。

●『元禄女系図』よりタイトル・クレジット(監督 : 石井輝男、1969年、カラー、約2分5秒、東映作品、35mm)
石井輝男監督と組んだ初めての作品で、土方は映画全体を象徴する舞踏をタイトルバックで踊っている。『肉体の叛乱』(1968年)の時期の土方舞踏の空気をうかがい知ることができる映像である。

 

※土方巽の影響は美術、音楽、映画、文学など様々な領域に及び、特に60年代の彼の活動は総合的な芸術表現ともいうべき様相を呈すに至った。「イベントークPartVI」では、中西夏之、加納光於、赤瀬川原平、水谷勇夫ら、美術家から作品提供、原稿執筆などの協力を得て、公演パンフレットを作成した。また、作品のいくつかは公演当日のロビーに展示された。

 

作品右下:『Untitled』 1997年 加納光於

写真中央上:『疱瘡譚』より 

 写真/小野塚誠

写真左下:『鏡のテオーリア』より

左:元藤火華子、 右:大野一雄

 写真/南部辰雄

写真中央下:『禁色』より 左:土方巽、 右:大野慶人