第二次世界大戦後のイタリアは日本と同じように政治的にも経済的にも厳しい環境の中で自国の産業の復興をめざす一方、美術家たちは新しい時代にふさわしい表現を模索していきました。

 中でも「もの」や日常的な素材を寄せ集めて作品を構成するアサンブラージュやコラージュの方法が注目されました。戦争でばらばらに分断された「もの」にもう一度秩序を与えると同時に、どこにでもある素材を組み合わせて新しい「色」と「線」の秩序を作り出そうとしたのです。もう一つは作品の表面に穴をあけ、あるいはナイフで切り込みを入れて、作家の生の制作行為をそこに刻印しながら、表面の内側に存在する空間を概念的に開示して暗示する方法でした。

 こうした二つの実験的な方法を承けて、その後数多くの前衛的な作品が生まれてきました。中でも1960年代に始まった主としてローマ市とトリノ、ミラノ両市で活動した美術家たちによる運動は国際的な反響を呼びました。一般的には彼らの作品の傾向はアルテ・ポーヴェラ(ポーヴェラ=簡素な/貧しい)と名付けられていますが、工業製品、鉄、土、水、火、動物や植物を素材として用いるとともに、制作方法と制作手段の絶対的な自由を求める美術でもありました。したがってそこにはコンセプチュアルなものから、表現主義的なもの、形而上学的なものまでさまざまな傾向があります。彼らはアメリカのネオダダやポップアート、そしてミニマル・アートを吸収しながらも、イタリア美術の伝統的な造形方法に基く独自のスタイルを産み出していきました。70年代の後半に入ると、アルテ・ポーヴェラの作品がもっていた概念性と禁欲性に批判が起こり、アルカイックなスタイルで具象的なイメージを描く表現主義的な手法の絵画が登場してきました。以後イタリアの美術は多様化し、素材を重視した傾向や自然科学の知識を基礎に光と影の視覚的効果を探求する方向も現れてきています。

 この展覧会は以上の観点に立って、戦後イタリア美術の流れを立体作品を中心に三つの時代に分けて26人の作家約80点の作品で紹介するものです。日本では1967年の「現代イタリア美術展」と、1979年の「近代イタリア美術と日本 ─ 作家の交流をめぐって」、1982年の「イタリア美術の一世紀」展が開催されて以来、戦後のイタリア美術の一面がまとまって紹介されることはありませんでした。国内の作品と海外からの1点の作品を除く出品作が、日本で初公開となる本格的なイタリア現代美術展となります。

 

第一部
40年代から50年代 ─ 新しい素材と空間
ブッリ、コッラ、フォンターナ、メロッティ

 第二次世界大戦後、イタリア絵画は社会問題を絵画で表現する社会主義リアリズムの方向と「色彩」や「線」といった造形言語そのものを純粋に探求する抽象絵画の方向に分かれました。一方で新しい素材と新しい表現方法を創り出そうとする美術家がローマとミラノを中心に登場してきました。

 アルベルト・ブッリ(1915-1995)は、アメリカでの捕虜生活から1946年に戻ると、タール、ジュート麻、鉄、木、戦後改良されていったビニールなどの、従来の絵画作品では用いられなかった非伝統的な素材を使って制作しました。異なる質感をもつ素材の形を重ね合わせたり、縫いあわせたり、時にバーナーで焼いたりしました。また黴の働きや乾燥という自然の働きも利用して、裂け目や割れ目、焦げ目などを新たな造形言語として作り出していきました。一方で、1951年にブッリと<オリジネ・グループ>を結成し、戦前より具象系の彫刻家として活躍していたエットーレ・コッラ(1896-1968)は、ローマ周辺で廃品の鉄を拾い集めてそれを溶接してつなぎ合わせました。この方法で、コッラは《ピグマリオン》や《オルフェウス》のような人間の形に似た神の姿を再生させようとしています。

 ルーチョ・フォンターナ(1899-1968)は、1930年代からすでにミラノで彫刻家として活躍していましたが、1940年代にアルゼンチンへ移住しました。ブエノス・アイレスで現地の若い芸術家たちが1946年に「白の宣言」を発表するのに協力し、戦後の新しい芸術理念を提唱しました。1947年にミラノに戻ったフォンターナは、繰り返し「空間主義者宣言」をミラノの知識人グループと発表して、現代的なテクノロジーの発展に即した新しい空間を提案していきました。最初に穴を穿ったのは1949年です。これは作家の制作行為をそこに刻印しつつ、絵画を閉じられた平面から解放して、絵画表面の内側に存在する空間を解放しようとする方法でした。また、1949年には蛍光管(ネオン管)が曲線を描く大がかりな環境インスタレーションを行いました。1959年に画面にナイフで切り裂きを入れ、作品の内部に広がる空間を外部と結びつけようとしました。1960年からは、代表作で集大成でもある卵型の《神の終焉》を制作しました。卵型のカンヴァスに穿たれた穴は宇宙のようにも見えます。

 ファウスト・メロッティ(1901-1986)も戦前から活動していたミラノの彫刻家でしたが、彼が評価されるようになったのは1960年以降のことでした。戦前は、今回出品されている《変化するカノンT》のように幾何学的な形が連続的に展開する抽象的な作品を制作していましたが、戦後になると《アフリカ》や《亡き子供のパヴァーヌ》のようにテラコッタや真鍮、ブロンズ、布などの様々な素材を自由に組み合わせて、人の姿や自然の形を単純化された形態で物語を表現する彫刻家となりました。

 

第二部
60年代から70年代 ─ 環境と概念
カステッラーニ、マンゾーニ、ロ・サヴィオ、パスカーリ、
クネリス、ファブロ、アンセルモ、ゾリオ、
メルツ、ピストレット、ボエッティ、カルツォラーリ

 1960年代に入ると、フォンターナとブッリが推し進めていった空間と素材の概念を展開する方向と、50年代のアンフォルメル絵画や抽象表現主義絵画が持っていた主観性を克服するために、空間環境と社会的環境を作品に取り入れる方向が登場しました。

 ミラノのピエロ・マンゾーニ(1933-1963)は絵画表面の「色」や「線」が絵画としての広がりを制限するとして、カンヴァスを白い陶材に浸したり、糸やグラスファイバーなどの素材を用いて、「アクローム(無色)」と題する数多くの白い作品を制作しました。一方で「30グラム、自然保存」と金属カンに記された《アーティストの排泄物》を当日の30グラムの金の相場で売るといった、資本主義社会での美術作品の在り方を問題提起する反芸術的な活動も行いました。《線》は、紙あるいはカンヴァスの表面に端から端まで横断する線を引いて、それを箱の中に入れた作品です。箱の表には引かれた線の長さが記されています。建築をベルギーで学び、マンゾーニと『アジムート(方位)』の美術雑誌を刊行したミラノのエンリコ・カステッラーニ(1930)は、《銀色のトリプティック》や《白い表面》のように、単色の絵画平面に規則的な凹凸をつけて、光が当たることによって生じる光と影のリズミカルな緊張感を提示しました。

 ローマのフランチェスコ・ロ・サヴィオ(1935-1963)もまた建築を学んだ美術家ですが、作品の表面を湾曲させたり、鉄のフィルターを重ねて面を多層化して、周囲の光の質と量によって見え方が変化する構造体を示そうとしました。彼らは美術作品を作家の内面の主観的な表出、あるいは自律した抽象的な構造体とするのではなく、作品の置かれる環境を考慮しながら光と関係づけようとしたのです。

 ミケランジェロ・ピストレット(1933)は人物像を黒いモノクロームを背景にして描き、人間の姿が画面に写り込むようにしました。続いて、鏡面仕上げのステンレスに人などを描いた薄紙を貼りつけました。作品の前に立つと、見るものの姿がそこに映り込み、描かれている人物と混在するようになります。こうした演劇的仕掛けは、代表作《ぼろぎれのヴィーナス》でも観察され、日常的世界の産物である衣服が積まれ、それに芸術的な世界の象徴でもあるヴィーナスが対面して、なおかつそのヴィーナスが我々に対して後ろを向いている、という構造は我々を日常的な意識の枠組みの中から、別の世界へと誘うものです。

 ルチアーノ・ファブロ(1936)は形態を新たに作りだすよりも、そこにあるもの、すでにあるものをそのまま見せようとする「同意反復(トートロジー)」、と呼ばれる手法を用いた画家です。続いて、現実に存在するものを別の色や形で見せることでものを再認識させようとしました。《足》では金彩されたブロンズの足の硬質な部分と柔らかい絹のひだを対比的に見せています。金で彩色されたブロンズ素材のイタリアの形を逆さにしてぶら下げた作品《黄金のイタリア》では、見慣れたイタリアの形が全く別の様相を示します。《衣服かけ》でも同じことが言えるでしょう。ブロンズのフレームと彩色された布から構成される衣服掛けは、彫刻的な立体感を備えています。小さな大理石のピラミッドである《飛翔》の底の部分には、卵型の大理石が挟み込まれてピラミッドが飛び立つような動きが示されています。

 ジューリオ・パオリーニ(1940)は、1960年代の初頭から「絵画」を定義づける人間の認識の構造から逆に「絵画」そのものを根源的に問い直し続ける作家でした。「絵画」を作り上げてきた絵の具といった材料、絵画本体を構成する木枠、絵の具の支持体となる画布、絵画空間を決定する透視図法、絵画を見つめる視線、絵画として描かれるイメージ、過去の芸術作品という数々の構成要素の循環構造の中で制作しています。1965年の《1/25秒》では作品のパネルを手にした自分の姿を1/25秒のシャッタースピードで写し、それを画布に印刷しています。《模倣》は、同じ姿形をしたギリシア彫刻の石膏像が互いに見つめあう関係を示し、《ネッソス》はネッリスの胴体部の石膏像とヘラクレスを示す頭部の平面的なデッサンで構成され、二つの異なる素材の間に赤い血のような布が巻かれているという作品です。《『絵画論』のための習作》は9枚のパネルが一つの透視図法によって統合され、その消失点の位置する中央のパネルだけが裏側を向いているという作品です。

 50年代から60年代の前半にかけて、植物を思わせるアンフォルメル絵画を制作していたマリオ・メルツ(1925)はイヌイットの住居形態である「イグルー」のシリーズで有名です。メルツはセメントや石の板、ガラスなどで半球形のシェル構造を作り、イグルーの表面に蛍光管で詩のフレーズやフィボナッチ級数を加えました。フィボナッチとは14世紀のイタリアの数学者の名前ですが、これは先行する2つの数字を加算していく数列で、貝殻や葉などにしばしば観察されるものです。80年代に入ると、サイやイグアナなどの姿が「イグルー」、あるいはそのヴァリエーションである「テーブル」の周りに絵画として描かれ、それらを取り囲む広大なインスタレーションへと変化していきます。メルツは日常的な「もの」や立体のフォルムと絵画のフォルムなどを自由に横断して、時間的な軸と空間的な軸を越えた超歴史的な世界と超地理的な世界を作りだしています。

 ジョヴァンニ・アンセルモ(1934)は目には見えない重力の働きや、もののエネルギーを認識させる作家です。《無題》のようにつり上げられた石は高く引き上げられることで視覚的に次第に重力を失っていきます。また、スライドから映写される文字のシリーズでは、通常は目には見えない光が手のひらのようなスクリーンを得ることで「見えるもの」として視覚化されることになります。《部分》は、文字の映った部分が全体の「部分」であることをはっきりと認識させる仕掛けになっています。《ねじれ》では、セメントに埋め込まれた皮が強くねじられ、その反発するエネルギーが一本の棒に集約されています。《パノラマとパノラマを示す手》では、絵画に描かれた手が現実世界の石を示します。

 ローマのピーノ・パスカーリ(1935-1968)は、「偽彫刻」という概念で「武器」、「動物」、「海」など様々な現実のものを彫刻にしました。《機関銃》という作品ではイタリアの有名な車であるフィアット500の車の部品を組み合わせて、その表面を緑の色を塗って本物の武器のように見せています。武器にも見えるが、彫刻作品としての確かな立体感もそこにあるというわけです。《彫刻の斬首》にはパスカーリの意図が、そのまま作品のタイトルにも現れています。

 ギリシアに生まれ、ローマの美術アカデミーで学んだヤニス・クネリス(1936)は60年代の初頭に記号的な文字絵画でデビューしています。クネリスはローマの都市の中に見た現実の記号をそのままイコン化することで絵画に秩序を与えようとしました。1969年にはローマのアッティコ画廊で生きた12匹の馬をそのまま展示しました。以後、彼は混沌とした現実世界を石炭、七面鳥、火、鉄、豆、ジュート、過去の彫刻作品など、さまざまな素材を用いて元来つながりのないあらゆる素材を絵画として秩序づけようとしています。

 アリギエロ・ボエッティ(1940-1994)は概念的にあるいは一定のプログラムにしたがって絵画を作っていきました。《カモフラージュ》という作品では、作品がカモフラージュする、という意味で、見るものと作品との奇妙な関係が示されています。有名な《地図》シリーズでは、政治的な状況で変化していく線(国境)と色(国旗)が構図を決定していきます。

 ジルベルト・ゾリオ(1944)はものの中に潜むエネルギーを形にしようとする作家です。《円柱》においては弾力がある空気を中に含んだエアー・チューブを押しつぶす石綿セメントの円柱の力を対比的に示しています。ゾリオはまた環境に応じて変化する化学的な素材を用いて、作品自体の能動的な反応を示しました。牛の革を素材とした《自画像》では、目にあたる部分に塗られたリンが外光に反応して煌めきます。さらに星と槍を組み合わせた《星》では、壁に刺さった槍の暴力的なイメージと、星の形がもつ宇宙的なメタファーを組み合わせています。

 ピエル・パオロ・カルツォラーリ(1943)は冷蔵庫の原理で銅管が白く霜のはる作品を制作します。60年代の後半から蛍光管を用いて文字を示してきた作家です。

 アルテ・ポーヴェラの作家でも、自然との直接的な関係から作品を作り出していったのがジュゼッペ・ペノーネ(1947)でしょう。《5メートルの木》は残す年輪を決めて、節に注意しながら、材木を削り込んでいく作品です。《ドレスのある森の緑》では木の幹の表面をフロッタージュして木肌を写し取り、もう一度森を再構成しています。《クリスタルの泉U》では古木のような形をしたブロンズの構造体の中を水が還流し、その端の部分から、クリスタルがあたかも水のように飛び出している作品です。

 ローマ市とトリノ市─ミラノ市で登場したこれらの美術家たちは孤立していたわけではありません。これらの作家によるグループ展が1960年代の後半からローマやアマルフィ、ボローニャなどで企画されました。その中でもジェノヴァのラ・ベルテスカ画廊で美術批評家ジェルマーノ・チェラントが企画した1967年の「アルテ・ポーヴェラとIM空間(空間の中)」展が、これらのイタリア人美術家たちの運動に名前を与えるとともに、世界にその名を広める結果となりました。

 

第三部
80年代から90年代──色彩とイメージの復権
クッキ、パラディーノ、デ・ドミニチス、ビアンキ、
デッシ、バニョーリ、サルヴァドーリ

 70年代にイタリアの美術はイリュージョンをできるだけ排除しながら、素材そのものを組み合わせると同時に絵画そのものを批判的に捉えていきました。その結果、作品は色彩のない禁欲的な傾向を示しました。次の世代の作家や、これまで活動してきた作家の間には、もう一度絵画が持っていた色彩性と豊かなイメージを作品に復権させようとする動きが生まれてきました。具象的なモチーフを神話的・物語的に扱う、新しい世代の作家たちはトランスアヴァングアルディア(超前衛主義)とも呼ばれ、アルテ・ポーヴェラと同じように世界的な注目を浴びました。

 トランスアヴァングアルディアの旗手であるエンツォ・クッキ(1949)は、《古木のある小路》のように木の枝のような素材と絵画のイメージとを同一レベルで扱い、イメージともの自体、イメージと絵画自体を自由に往復して、非時間的で神話的な風景を作り出す傾向を見せています。ミンモ・パラディーノ(1948)もまた立体的な絵画、あるいは絵画的な立体を作りあげてきた作家です。《幻惑される》では鮮やかに際だつ青い画面に少しグロテスクな顔をした動物のモチーフを貼り付けています。

 ジーノ・デ・ドミニチス(1947)は、60年代の後半から立体作品とパフォーマンスで活躍し、生と死、存在と非存在、見えるものと見えないものとを美との関係で追求する作品を作ってきました。滅びてしまったメソポタミアの神々を主題に《ウルヴァージとギルガメシュ》のように生と死の概念に関する作品を数多く作っています。

 物質とエネルギーを問題にするこうした作家とは別に、エットーレ・スパレッティ(1940)は形態を単純化して、その表面を非常に繊細なモノクロームの色彩で覆っていきます。ドメニコ・ビアンキ(1955)は、ロウ、木やグラスファイバー、鉄を素材にして絵画の表面をきわめて繊細に作り上げて神秘的なイメージを作り出しています。ジャンニ・デッシ(1955)は絵画パネルの架かる壁、支持体の表面と絵の具層などのように、絵画を幾つかの層に分割して、これらの層の関係から作品を作っています。《チャンピオン》ではフレスコ画のように壁を黄色く塗り、下半分には画布を垂らし、その接点を目の描かれた卵形の小さな木板で固定します。絵画を支える壁の層と壁に架かる絵画の画布の層、二つを結びつける木板の層といった、幾つもの層の往復運動によって作品が成立しています。

 マルコ・バニョーリ(1949)は実体とその影のイメージの両義性を示す作家です。《空間と時間》の一部をなすインスタレーション《射手の姿のように》では、彫刻自体の形と彫刻に当たられた光によってできる影とが異なるように見える作品です。

 レーモ・サルヴァドーリ(1947)は、ものの素材が秘めるエネルギーと意味、そして空間の調和を形にする作家です。《起源》では本来重いはずの鉛の板が折り込まれて彩色され、そこに抽象的な形が描かれることで、実際よりは軽く見える作品です。《垂直》では薄い銅板を丸めて針金で止めて自立させ、その上に厚紙と重量のあるヴェネツィアガラスを積み重ねていった作品です。ここでは素材としては軽いものが重いものを支えるという危うい構造が示されています。また、《三段階》では石膏素材で表面の彩色された瓶が三つの時間、過去、現在、未来を表し、それが瓶の口に差し込まれた針金で互いに連関しあうという構図が示されています。

 

作品:

Fabro ルチアーノ・ファブロ『黄金のイタリア』 1971 作家蔵

Burri アルベルト・ブッリ『袋と緑』 1956
ブッリ・コレクション(パラッツォ・アルビッツィーニ財団) チッタ・ディ・カステッロ

Colla エットーレ・コッラ『オルフェウス』 1956
イゾラ画廊、トレント

Fontana ルーチョ・フォンターナ『空間概念』 1960
愛知県美術館

Melotti ファウスト・メロッティ『アフリカ』 1966
メロッティ・コレクション、ミラノ

Manzoni ピエロ・マンゾーニ『アクローム』 1962
マンゾーニ・アーカイヴ、ミラノ

Castellani エンリコ・カステッラーニ
『銀色のトリプティック』 1966
ベアトリーチェ・モンティ・コレクション、ミラノ

Lo Savio フランチェスコ・ロ・サヴィオ
『網状フィルター』 1962
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Pistoletto ミケランジェロ・ピストレット
『ピヴェッタ』 1973-1974
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Paolini ジューリオ・パオリーニ『ネッソス』 1977
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Merz マリオ・メルツ『タービン』 1988
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Anselmo ジョヴァンニ・アンセルモ『無題』 1969
クリスチャン・シュタイン画廊、ミラノ

Pascali ピーノ・パスカーリ『機関銃』 1966
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Kounellis ヤニス・クネリス『無題』 1988
リヴェッティ財団、トリノ

Boetti アリギエロ・ボエッティ
『カモフラージュ』 1966
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Zorio ジルベルト・ゾリオ『自画像』 1972
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Calzolari ピエル・パオロ・カルツォラーリ
『私の人生の将来計画としての占星術』
1968 リヴェッティ財団、トリノ

Penone ジョゼッペ・ペノーネ『5メートルの木』 1970
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Cucchi エンツォ・クッキ『古木のある小路』 1983-1984
アキライケダギャラリー

Paladino ミンモ・パラディーノ『幻惑される』 1978 作家蔵

De Dominicis ジーノ・デ・ドミニチス
『ウルヴァージとギルガメシュ』 1987 リア・ルンマ・コレクション、ナポリ

Spalletti エットーレ・スパレッティ『赤い大地』 1997 作家蔵

Bianchi ドメニコ・ビアンキ『無題』 1991
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ

Dessi ジャンニ・デッシ『チャンピオン』 1988 作家蔵

Bagnoli マルコ・バニョーリ『射手の姿のように(空間と時間)』
1992-1993 作家蔵

Salvadori レーモ・サルヴァドーリ『三段階』 1985
クリスチャン・シュタイン・コレクション、トリノ