COLLABO-ART "Kan"
生命としての<水>をめぐって ─コラボアート「環」

 愛知芸術文化センターはオペラ公演に対応出来る大ホール、演奏会専用のコンサートホール、演劇公演によく使われる小ホール、リハーサル室など、舞台芸術に関係する多くのスペースに加えて美術館をも包括し、さらに文化情報センターを機能させるためのビデオルーム、アートプラザ、アートライブラリー、アートスペースなど、実に多様な部門が配置されている巨大な複合施設である。これら実質的な機能を持つ各部門は、あたかもわれわれの身体の中の臓器のようにそれぞれ独自の活動をしながらも、互いに有機的な連繋をとる必要があり、その総合体としての芸術文化センターはまさに小宇宙的存在でなくてはならない ─ そう考えると、これら各部門をつなぐ大小二つの吹き抜け空間、その底部や側方に拡がるフォーラム、屋外庭園やデッキ、階段、エスカレーター、エレベーターなどが急にわれわれの意識の中にはっきり浮かび上がってくる。これも身体にたとえるならば、その代表が血管。その中を活性化された血球が流れているように、芸術的にめざめた人々の行き交う姿が全館の活況を象徴するものと考えたい。

 愛知県文化情報センターが企画し、昨年から3年間にわたって年1回ずつ開催することになったダンス、音楽、映像のコラボレーション(共同制作)は、こうしたいわゆるパブリック・スペースを公演の場とすることによって、全施設の隅々までも活気で満たそうとする試みだといえよう。

 今年度のこのプロジェクトは「コラボアート環─顔の中に水がある」と名付けられて、去る10月7日に開催された。昨年のテーマ「舟の丘、水の舞台」は詩人・吉増剛造が木曽三川によって育まれた愛知の文化圏をイメージして付けたタイトルだったが、今回も副題には、<水>という文字が見られる。「顔の中に水がある」という語句は日常的なパブリック・スペースを<生命の共通成分としての水>が環流する非日常的な場にも変え得るという意味であって、前回からのテーマの一貫性を一層明らかにしたものと理解される。

 この度の公演では、総合演出に山口勝弘氏を迎えた。氏は1950年代から今日のビデオ・アートあるいはメディア・アートの先駆となる作品「ヴィトリーヌ」を制作し、詩人・瀧口修造を中心とする新進芸術家集団「実験工房」に主要メンバーとして参加した一人。作曲家・武満徹らと共に早くから様々な芸術領域を横断的にとl繧R時に会場へ駆けつけると、南側2階入口付近の屋外デッキでは、日本のダンス・グループ=コラボアート・ダンサーズ(オーディションで選考し結成。振付=米井澄江)による観衆招き入れの踊りが始まる。このイベントを目当てに来た人たちに、偶然来会わせた人も混じって、すでに差し潮の気配が漂う。

今回、オーストラリア・メルボルンから参加したもう一つのダンス・グループ(この公演のために結成。振付・ダンス=スー・ヒーリー)はやや遅れて地下2階のフォーラムに現われ、波頭に揺曳する光のように踊り始める。その後、エレキギター(今堀恒雄)とサックス(小田島亨、菊地成孔)の演奏が海鳥の叫びのように響き交わす中を、それぞれ独自に場を移動させつつ、2階・NHKビルとの連絡通路付近では街の風景を窓ガラス越しに呼び込んで身体に重ねたり、10階屋外庭園とロビーとの間ではガラスをはさんでダンサーと観衆とが互いを水族館的な状況に置くなど、各所で建築構造をたくみに利用し、日常と非日常の境をはずす試みが展開されて興味深かった。

結局、日没までの前半2時間半ほどは、観衆も自由に行動し、二つのグループのダンス・シーンを好き勝手に切り取って楽しむにまかせられたのだ。しかし小憩をはさんで、後半、日没後2時間ほどは観衆も仮面をつけて二分され、二つのダンス・グループのそれぞれ異なった移動コースに沿って行動を共にするように要請された。こうして生まれた二本の海流は、照明と映像によって異化された空間とそれを引き裂く稲妻のような音楽をくぐり抜け、その真只中に階を刻みつづけるエスカレーターによって熱く交叉する。そして遂には2階大ホール前のフォーラムを埋める白煙の波立ちと、レーザー光の豪雨の中で劇的な合流のクライマックスを迎えてこのイベントはしめくくられることになった。前半での細部へのこだわりを後半では一転、巨視的かつダイナミックな構成に転換した山口氏の演出コンセプトの鮮やかさは見事というほかなく、高く評価すべきであろう。終演と同時に観衆から熱い賞讃の声があがったのも、このイベントに直接参加したアーティストとともに、遠泳後にも似た到達感を共同体験出来たからに違いない。メルボルンのダンサーたちが示した表現のしなやかさも抜群だった。これが国際的なコラボレーションの発展にもぜひつながって欲しいものである。

馬場駿吉 

 

 写真/南部辰雄