『魔笛』の魔法
『魔笛』は何度見ても、その都度なにか新しい感動を得ることのできるオペラだ。ストーリーには辻褄の合わないところもあるし、それほど深遠な思想が盛り込まれているわけでもない。モーツァルトの音楽にしても、決して複雑ではない、むしろ至ってシンプルなものだ。繰り返し聴けば大体覚えてしまえる。そんなオペラだから、何度も見れば飽きてきそうなものなのに、見れば必ず思いがけない発見があったり、今までは考えなかったことを考えたりするのだ。『魔笛』では、物語の「支離滅裂さ」や「荒唐無稽さ」が、かえって自由な受け止め方を可能にしてくれる。そして、すべての登場人物を偏見なく描き出す天衣無縫なモーツァルトの音楽が、正邪や善悪を超えた人間の真実に目を開かせてくれる。『魔笛』の不動の人気の秘密は、たぶんそんなところにあるのだろう。
今回、愛知県芸術劇場で見た『魔笛』も、新鮮な感動と満足をもたらしてくれた。デイヴィッド・ホックニーによる舞台美術は、幾何学的構図のなかに一種独特の幻想性をもたらしていて、随所で目を楽しませてくれる。ポール・プリシュカ、ベンジャミン・ラクソン、スミ・ジョー、バーバラ・ボニーなど世界の第一線で活躍しているスターたちを集めた歌手陣の中では、パミーナを歌ったボニーが抜群に素晴らしかった。じつに細やかな情感のこもった清純そのものの歌。演技にも真実味があって、共感と同情をそそられる。夜の女王役のジョーも、この日は声の調子が良かったようで、二つの至難のアリアを立派に歌いきり、大きな喝采を浴びた。東京オペラシンガーズによる精密で力強い合唱も、特筆に値しよう。そして、スター小澤征爾が指揮する新日本フィルハーモニーは、全体に早めのテンポの中で、ハッとするような美しい瞬間をいくつも聴かせてくれた。私としては、もう少しゆっくりでもよかったのではないかと思ったのだけれど。
田辺秀樹 (音楽評論家)
ホックニーのステージワーク『魔笛』
現代美術家デイヴィッド・ホックニーによるモーツァルトの歌劇『魔笛』の舞台美術は、音楽と美術との幸福な出会いを感じさせてくれる。
歌劇『魔笛』は、ジンクシュピーゲル(大衆的な歌芝居)の伝統を受け継ぎながら、モーツァルトも入信していた秘密結社フリーメイソンの教義を語ったものと言われているが、ホックニーはその舞台を時代考証的に再現するのではなく、あくまで歌芝居らしく、荒唐無稽なメルヘンの世界として表現している。
主人公である王子タミーノと鳥刺パパゲーノは、まるで絵本のページをめくるように、夜の女王が支配する森からザラストロの統治する神殿へと旅をする。彼らが歌い動きまわる舞台の背景画は、平面のなかに空間を感じさせる近代絵画の写実的な画法ではなく、明らかに平面的で記号化された「書割(かきわり)」としてデザインされている。例えばザラストロの神殿の場面では、強調された幾何学的な遠近法によって、ピラミッドを頂点としたスペクタクルな光景が描かれているが、そこでは現実的な空間を再現することよりも厳格な調和の世界を象徴することが意図されている。同じように、無数の星が渦巻く夜の女王の暗闇の場面や輝かしい光に満ち溢れたザラストロの神殿の場面においても、単なる説明的な情景描写ではなく、渾沌(闇の世界)と調和(光の世界)の象徴を読み取ることができる。
このような「書割」とともに、ホックニーらしいポップで鮮やかな色彩設計によって、登場人物の役柄が明確に設定されている。悪(無知)の化身である夜の女王の「黒」、理性を意味する弁者の「青」、王女パミーナの純潔の証としての「白」、光輝なる英知の存在であるザラストロの「黄」。そして若さと情熱に溢れた王子タミーノは、「緑」と「赤」の狩猟服から王女パミーナとお揃いの「白」の僧服、さらに「黄」の結婚装束へと、試練を乗り越えるごとに衣装を着替えるのである。
こうしてホックニーは記号化された「書割」と登場人物の色彩設計によって、『魔笛』の世界をポップな「飛びだす絵本」として見事に視覚化したのである。
1978年のグラインドボーン・フェスティヴァルのためにデザインされたホックニーの『魔笛』の素晴らしさは、何よりも20年を経た現在も上演される事実が証明しているのではないだろうか。
山田 諭 (名古屋市美術館学芸員)
写真/南部辰雄
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