二つの〈柵〉 

戦争、そして戦後へ ― 北川民次展から

 北川民次(1894-1989)は、1914年に早稲田大学予科を中退してアメリカに渡り、ニューヨークで劇場の舞台背景を制作する職人として働きながら、国吉康雄や清水登之などアメリカに渡った日本人画家たちが学んだことで知られるアート・ステューデンツ・リーグで絵画の基礎を身につけた。彼は1921年にはメキシコに移り、この地で画家としての本格的な活動を始め、革命後のメキシコで美術を民衆のものにすることをめざした野外美術学校の運動に加わり、児童美術教育の実践に取り組むとともに、自身の絵画制作の方向性を探るかのようにさまざまな試みを重ねていった。彼ははじめセザンヌやゴーギャンの影響を受けていたが、やがてメキシコの児童画などに見られる特質、つまり対象(描くもの)を、単に感覚だけでとらえるのではなく、自分が知っているものを描くということに自らの制作の課題を見いだし、これを二十世紀に絵画としての評価に耐えられるものにすることをめざして独自に作風を形成していった。

彼は1936年に帰国すると、翌年にはメキシコ的な題材を、かの地の壁画を思い起こさせるようなダイナミックな構成によって描いた作品群を発表して二科会会員となり、日本での画家としての地位を得ていった。第二次大戦中には瀬戸に移り住み、窯業の盛んな瀬戸の街とそこに働く人々を愛し、自らの作品にそれを好んで描いた。また、彼はしばしば日本の社会がかかえる諸問題を積極的に取りあげるなど、時代に生きる画家として社会と真剣に向かい合い、日本の美術界ではあまり顧慮されてこなかった絵画の社会性についても、一つの具体的な可能性を示した。この北川の思想性のある絵画は、日本の美術界にあって、どちらかと言うと異色のものとしての評価を受けてきた。

しかし、彼が描いた諸々のテーマ(戦争、公害、沖縄問題、教育制度、民主主義、労働、家族、母子など)は、現在もなお解決の糸口さえ見いだされない、むしろ深刻さの度を増している今日的な問題であったり、あるいは私たちの生活の根本にある人間関係であったりするものである。北川は、その意味で今も我々のすぐ近くにいる画家なのである。

《農園の夢》
《家族と画家夫妻》

 北川民次が、戦時下の1943(昭和18)年に制作した《農園の夢》のなかに描かれた四人の人物は、北川自身と彼の妻と二人の子供であろう。シュルレアリスムの絵画を思わせるこの作品には二つの世界がある。生活と労働の場所を象徴する畑がある彼ら夫婦のいる空間には教会の建物とライオン、そして一本の歪んだかたちの樹木が描かれている。そして柵で囲われた子供たちがいる空間には、蝶が飛び、玩具や本、花といった平和な日常を約束するようなモティーフがちりばめられて、二人はそこで寝そべったようにして遊んでいる。ライオンや歪んだかたちの樹木に象徴される不安や危険との隣り合わせの生活世界と、戦時下の現実では夢でしかない子供たちの平和な世界、これらの柵によって隔てられた二つの世界の対比には、家族でさえも分断してしまう戦時体制へのせめてもの抗議と、子供たちの安全を願う一人の父親の思いを読みとることができよう。

 一方、戦争が終わった年の12月に描いた《家族と画家夫妻》では、北川は長い戦争の後にようやく手にした平穏な日常を描いている。彼の家族はテーブルについて飲物を楽しみ、子供たちは果物も手にしている。テーブルの上には一輪の花が活けられ、彼らの傍らにも赤い実をつけた緑の枝が壷に活けて置かれている。その家族の向こうでは、若い画家がカンヴァスに向かって制作し、画家の妻は食物でも入ったような籠を手に働いている。そして彼らがいる丘には山羊や兎、鶏が遊んでいる。丘の頂には柵が巡らされて、その中央には枝も満足にない一本の樹木が描かれているが、これはあるいは過ぎ去った戦争とその不安を象徴しているのかも知れない。

 数年前に《農園の夢》で描かれた柵の内と外の世界が、ここでは全く主従を逆にしている。平和を願う夢は現実のものとなり、戦争は過去のものとなった。戦争の時代には、歪んだかたちの樹木は苦悩や不安の象徴として彼の作品に描かれていた。しかしここでは、その樹木はもはや小さく枯れたかのように描かれていて、その樹木のある柵の中でも山羊が遊んでいる。

【M.M.】