REVIEW 美術館「トライアローグ」/劇場「イスラエル・ガルバン」

愛知芸術文化センターで過去に行なわれた展覧会や公演などを振り返る「REVIEW」。観た人も観逃した人もコチラをチェック!

美術館 わたしたちの20世紀西洋美術

トライアローグ 横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館 20世紀西洋美術コレクション
2021年4月23日(金)~6月27日(日)
場所/愛知県美術館(愛知芸術文化センター10階)

 ところで、美術館のコレクションは誰のものだろう。
 20世紀西洋美術は日本にとって「美術」と同義だった。ちなみにわたし自身もその価値体系を内面化し血肉としてきた美術家であるという自覚がある。本展に並ぶ作品群の骨子は90年代までにおおかた出来あがっており、美術館の作品購入の予算や倉庫の容量の問題などもあってこれらの西洋美術がこれからもコレクションの中心的な役割を担っていくことは間違いないだろう。その一方で現在のポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスに照らし合わせてみるとその特権的地位も盤石とは言い切れない。
 作品の見せ方を工夫し、魅力をわかりやすく伝えることでコレクションの価値を市民に啓蒙していくのも手だが、作品や作家の負の部分もひっくるめて歴史を紐解き徹底的に開示していくことこそが本当の意味で作品に潜在する可能性や恐ろしい想像力を浮き彫りにするはずだ。
 美術館のコレクションはわたしたちにとって財産であると同時に負債でもある。その事実こそが自国の美術をたんに西洋美術に代弁させる以上の意義をもたらすのではないか。たしかに美術・アートはそれぞれの国で育まれ積み上げられていくものだが、日本にこれだけ充実した西洋美術のコレクションが存在すること自体が日本の自画像と言える。であるならば、昨今のオリンピックをめぐる混乱を報道するネットニュースなどよりも本展のコレクションたちに刻まれた帝国主義の痕跡や「戦後」を覗き見る方がより本質的にこの国の地金を捉えることができる。コレクションを美術館でも市民でもなく、どこか一部分でも「わたし自身のものである」と思えた時に、自分が生まれる前からそこにあった近現代の産物ににじり寄ることが可能なのだ。
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REVIEWER 梅津庸一さん

美術家、私塾やギャラリーを擁する「パープルーム」主宰。愛知県美術館では2017年に個展「未遂の花粉」を開催。

劇場 自由とスリル、冒険するフラメンコ

イスラエル・ガルバン『春の祭典』
2021年6月23日(水)・24日(木)
場所/愛知県芸術劇場コンサートホール(愛知芸術文化センター4階)

2021年6月24日(木)イスラエル・ガルバン『春の祭典』©Naoshi Hatori

 ニジンスキー振付での初演(1913年)以来、数多の振付家たちが挑戦してきたストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』。フラメンコ界で異彩を放つ前衛主義者イスラエル・ガルバンによる上演は、いうまでもなく、その「踊り」が同時に「演奏」でもあるという点で他と全く違っている。足で床を踏み鳴らす(サパテアード)、手拍子(パルマス)を打つ他に、ガルバンは手で体を叩いたり、口で音を立てたりしながら、原曲の演奏に全身で介入していくのである。
 二台のピアノ(片山柊、増田達斗)が刻む変拍子にサパテアードを重ねてフラメンコ的なアクセントを入れる。あるいは三連符を刻んだり裏拍を取ったりして曲に絡み、ポリリズムを作り出す。舞台上には、それぞれ違った音が出る小さな舞台がいくつも設けられ、ガルバンはそれらを渡り歩いて多彩なシーンを展開していく。地底から轟くような重低音、砂を靴で磨り潰す音、さらには息遣いや衣擦れの音までが音楽になる。
 綿密に構成された作品であると同時に、気負わない遊戯性と一触即発のスリルに満ちた、実に不思議な舞台だ。男踊りと女踊りを交錯させ、ジェンダーを攪乱する側面もある。高尚な「芸術」性と、享楽的な「芸能」性が同居する点に20世紀以降のフラメンコの特質があるとすれば、ガルバンもそれを確かに受け継いでいるようだ。
 二曲目の武満徹『ピアノディスタンス』、そしてとりわけ三曲目の増田達斗『バラード』でもガルバンの足は曲によく絡み、奔放に動いた。伝統的な「型」と、発想の自由さが対立しない。「伝統の破壊者」などと言われたこともあるガルバンだが、むしろそうした表層の向こうに、フラメンコの精髄を高々と掲げてみせているように思える。
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REVIEWER 武藤大祐さん

ダンス批評家、群馬県立女子大学准教授。近現代アジア舞踊史と、振付の理論を研究。
論文「舞踊の生態系に分け入る」(2018)等。

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