愛知芸術文化センターの看板はオペラハウスのみにあらず。愛知県初の本格的実験劇場をご存知ですか。明るい銀色のフォワイエから2枚の遮音ドアを抜けると、葡萄のように吊り下がる黒い照明機具、天井を縦横に走る剥き出しのキャッツウォーク(作業通路)暗褐色の床板、すべてが黒塗りの演劇工房。この秋、この平土間が若者の感動に震えた。
演出家ジョン・レタラック率いる人気劇団OCS(オックスフォード・ステージ・カンパニィ)は、11月14日(月)から4日間、満員札止めの観客を集めた。ウイリアム・シェイクスピアの名作『ロミオとジュリエット』が若者の心を強く打った。なぜ?居合わせた観客の一人としてその謎に迫ってみよう。
「いずれ劣らぬふたつの名家
花の都のヴェローナに
新たに噴き出すいにしえの遺恨
人々の手で血を汚す。
不倶載天の胎内から
産声あげた幸薄い恋人
重なる不運が死を招き
親の不和をも埋葬する。
死を印された恋の成り行き
いとし子の命果てるまで
終わりを知らぬ親同士の争い
二時間の舞台で繰り広げ
ご高覧の供します。
至らぬところもございましょうが
ご満足ゆくよう勤めます。」
(松岡和子訳)
<初め良ければ、すべてよし>
薄明のステージに一枚の大きなレースのカーテン。ヴェローナ市の大公エスカラスが音もなく静かに引いて行く。長い木製の壁を背に一列に並ぶ王侯貴顕の表情は暗い。舞台を斜めに横切る構図はパテティックでどこか19世紀ロマン派の絵画を思わせる。
コーラスが始まる。見事なアンサンブル。カル・ジェームス氏の作曲もすばらしい。幕開けの美しい場面は見る者の目と心を完全に取り込んでしまった。
<レタラック解釈の要、世代の分断>
さて『ロミオとジュリエット』はヴェローナの町の名門モンタギュー家とキャピュレット家の争いのため若き二人の恋人が死に至る話である。そのことはプロローグに明白に示される。
しかしコーラスは誰が歌うのか。シェイクスピアは何も言わない。合唱の専門家集団が歌うことも、文学座のようにシェイクスピア自身が登場して語ることも可能だ。レタラックの場合、ロミオとジュリエットを含む11人の関係者が黒と緋色のマント姿で登場する。直立不動の沈欝な整列は物言わぬ墓石のようでもある(その予感は的中し、ラストシーンは横たわる死者の柱列となる)。
レタラックのとって『ロミオとジュリエット』の悲劇は若者の悲恋に終わらない広がりを持っている。現代版<R&J>の『ウエストサイド物語』(ロバート・ワイズ監督、ジョージ・チャキリス/ナタリー・ウッド主演、1961年)では若者の世界が全面に出ているが、彼には社会のエスタブリッシュメントと保守的な政治風土の中で息をつまらせる若者たちの話なのだ。その意味で現代英国社会を色濃く反映する演出となっている。若者の暴力と矯正を扱った熱烈な映画『時計仕掛けのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督)思い出す。実際、物語中、死ぬのは誰か。5つの死はすべて若者であり、明日のない親たちだけが残される。二つの世代を引き裂くもの、物語はその犠牲への鎮魂歌(レクイエム)として展開する。
<ジュクスタポジションの手法>
劇中、コーラスは今一度登場する。結婚式へと高まる親たちのきたいがコーラスとなって響き渡る最中、ジュリエットは服毒死によって拒絶する。死を発見したナース(乳母)の叫びが歓喜の歌に重なる。二つの感情の激しい落差。実にうまい演出だ。レタラックが説明してくれた「同時配列」(Juxtaposition)とはまさにこれだった。
シェイクスピアは当時『空騒ぎ』にも取り組んでいた『ロミオとジュリエット』にはその要素やアイデアがいろいろと入り込んでいる。一つの場面は次の場面とコンストラストを持ち、また次の場面とコンストラストを持つという具合に同時並列的な構成を持っている。(中略)初演時点ではシェイクスピアは〈ミキシングする〉作家であったのだ。(中略)だから私もシェイクスピアが試みた方法に心を開いてみたのだ。(公演プログラムのインタビュー記事より)
シェイクスピアの台本に指示はない。彼の慧眼が発見した構図である。手法的には映画にもある。単調に流れる物語り展開を劇化するために使うテクニックだが、レタラックによればこの時期にシェイクスピアが好んで使ったという。
<くつの記号学>
レタラックはコスチュームに意匠を盛り込んだ。衣装はエリザベス朝だが、大人たちは革靴を履き、若者のくつはスニーカーだった。中間んい立つナースのくつは薄汚れたスニーカーだった。くつは二つの世代のギャップを示す一方、過去から未来へのチャンネルそして現代から過去へ飛ぶ回路として機能する。ここに成功した記号学を見るわけではない。黒いスニーカーがそこまで意味あると気づく人も少なかった。
<ファイト・ディレクター>
第一幕第一場、両家の若者の衝突。迫力ある武闘シーン。当人が傷を負ったり、客席に刀が飛んで来ないかと心配するほどである。迫真振りは第3幕第1場、友人マキューシオを倒されたロミオが相手のテイボルトを刺殺する場面に最高潮に達する。鈍い音(効果音)とともにテイボルトの首をへし折ってとどめをさした時には観客席から叫びにも似た悲鳴が上がった。日本に「立師(たてし)」という殺陣の振付け師がいるが、OSCにも専門の演技指導者「ファイト・ディレクター」がいる。
<舞台装置/何もない空間>
第1幕の最終場、ロミオとジュリエットと初めて出会う舞踏会場面で、舞台装置の大きさについて納得したことが一つ。
仮面とか剣とかの小道具は別として、通常シェイクスピア劇と言えば、ゴタゴタと派手に作られる。しかし鬼才はピーター・ブルックの『何もない空間』を受け継ぐレタラックの考え方はもちろん<シンプル イズ ベスト>である。できるだけ簡素というのではない。12枚の板切れと数枚の白い布地だけである。このような裸同然の舞台には演技力のない俳優には立つことすらできないだろう。
6つの長机は同サイズの6つのベンチと組み合わされて
ベットにも壁にも墓石にもバルコニーにも変容する。
カーテンはベットの天蓋や空間の仕切りのみならず、照明のキャンパスとしてシアトリカルに使われる(しかしそこに派手な色は一つもなくどこも落ち着いたライティングである)。ロシアの亡命演出家リユービモフの『ハムレット』も同様の舞台装置だった。手垢で汚れた厚手の生地が滑車の金属音とともに荒々しく作動し重苦しい雰囲気を醸し出した。しかしレタラックの使い方は優しくリリカルですらある。北欧の古城とイタリアの町ヴェローナの差といえばそれまでだが、イギリス的な繊細さと見てもよい。
さてイギリスのレッドグレープシアターで初演(ワールド・プレミエール)を見た時、ステージの高さに比して装置が小さいのではと思った。とくに舞踏会場面が6枚の板で作られ、広間というよりテーブルの上であった。バルコニー場面でも三段積みでなく四段積みであるべきだと思った。しかし小劇場で見ると、ぴったりである。
レタラックはこう言った。シェクスピアはグローブ座だけで上演するのではなく、移動することを前提に芝居を作った。それがプロローグのいう謎の「2時間」の意味でもあれば、自分の舞台装置の簡素さの理由でもあると。彼の『ロミオ』は名古屋で記念すべき百回目を迎えたが、これまでに幾つの都市を巡ってきたことか。エリザベス朝演劇の原点に帰るレタラックはまさしくイギリスの誇る演劇人である。
<バルコニー・シーン>
ジュリエットが月明かりの中に浮かぶ。ロミオが隠れているのを知らないまま、彼女が言う。「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」(第2幕第2場)
およそキザでわざとらしい台詞の数々を、ロマンスというものからほど遠い現代にあって、どうしたら少女の清純さと青年の無垢さで語れるのか。しかし二人は自分の言葉に酔うことなく自然にやってのけた。もってまわったデクラメーション(シェクスピア俳優を証明するに足る。見事ではあるが、妙にクサイ台詞回し)は一切ない。美しいアングルの連続に酔ったのは観客の方であった。
<第3の人物?>
ローレンス修道士は若い二人の相談役、絶望の余り自殺しようとするロミオには勇気を与え、追い詰められたジュリエットには自由と未来を約束する不思議な薬草を与える。しかし結び付けるはずの二人を死に追いやってしまう修道士は悪魔か魔女ではにのか。世代の分裂にあずかっていないように見えるローレンスを演じた当のトニー・タラッツに聞いてみた。人生の読み切りこれを自由に出来ると考える彼も運命に翻弄される愚かな人間に過ぎない。修道服をはぎ取れば、親たちの世代に属している普通の人間なのだ。皆さん、納得しますか。
さて最後に、彼の率いるOSCはイギリスでも珍しいツアーリング・カンパニィ(巡業劇団)である。1974年、英国の誇るオックスフォード大学の演劇協会の「プレイハウス」に誕生した当初はレジデント・カンパニィ(専属劇団)だった。名前も今と違ってOPC(オックスフォード・プレイハウス・カンパニィ)。しかし1987年、再三の資金難から拠点劇場「プレイハウス」が貸し館となってしまう。家無き子になったOPC
は現在のOSCと名称を改め、運命を托す船長を全国公募して選んだのがジョン・レタラックであった。以来、事務局8人を中心に優れた制作を続けている。名古屋での初公演は長く記憶に留めたいと思う。素晴らしい演劇人との出会いだった。
安藤隆之(中京大学教授・演劇論)
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