世紀末に花開いた日本趣味
19世紀の後半、様々なかたちでヨーロッパに移入された日本の浮世絵や工芸品は、マネ、およびモネをはじめとする印象派の画家たち、ゴッホやゴーギャンらの後期印象派の画家たち、あるいはボナールやヴュイヤールを中心とするナビ派の画家たち、さらにはエミール・ガレをはじめとするアール・ヌーヴォーの作家たちに大きな衝撃と影響を与えました。フランスを中心とするその全貌は、1988年にパリと東京で開催された「ジャポニスム展 19世紀西洋美術への日本の影響」で、理想的なかたちで紹介されました。
ところでジャポニスムはウィーンにおいても大きな花を咲かせます。オーストリアヘの日本文化の紹介は、1873年のウィーン万国博覧会を皮切りにその量を飛躍的に増大させます。余談ですが、この万博には名古屋城の金の鯱鉾が出陳されたことが知られています。その後も伝統工芸や着物、浮世絵が積極的にウィーンにもたらされ、日本趣味が広がりました。1902年には川上音二郎、貞奴一座がウィーンで公演を行い大きな反響を呼びました。
1897年、因習的な当時の芸術界の革新を志す、クリムトを中心とする画家たちが「ウィーン分離派」を結成しました。1900年の第6回分離派展では、日本を訪れたことのある日本美術収集家、アドルフ・フィッシャーのコレクション691点が一堂に展示されました。これは自然主義を克服し、装飾化と抽象化への傾きを強めていた進歩的な芸術家にとりわけ大きな感化を与えました。と<に非対称で大胆な構図の浮世絵、斬新な感覚の日本の型紙などが、クリムトをはじめとして、ヨーゼフ・ホフマン、コロマン・モーザーを中心とする「ウィーン工房」に集った工芸、意匠家たちに大きな影響を与えたのです。
本展は、1990年に『隠れた印象:ウィーンにおけるジャポニスム1870−1930」展を組織したウィーン国立工芸美術館の全面的な協力のもとに世紀転換期のウィーンの絵画、工芸、グラフィック、建築に現れた日本美術の影響の諸相
を検証しようとするものですo
(H.K.)
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