1912年にミュンヘンで出版された「青騎士年鑑」をめぐる人物を紹介しよう。(第2版は1914年で、A.Lの蔵書は初版本である)
編集者はともに画家であった。モスクワ生まれのヴァシリィ・カンディンスキーとミュンヘン生まれのフランツ・マルク。カンディンスキーとマルクの親交は、1910年のタンハウザー画廊での第2回「ミュンヘン新美術家協会」展に始まる。カンディンスキーはこの協会の会長をつとめていた。この展覧会に出品されたピカソやドランのような前衛的な作品に対して、周囲から激しい批判が浴びせられた。ある日、画廊はカンディンスキーに、当時また無名であった画家の好意的な手紙を見せた。その手紙の差出人がマルクである。マルクは、前衛絵画を擁護する評論活動もおこない、カンディンスキーと知り合う以前から、前衛絵画を推進するための雑誌が必要であると考えていた。一方で、カンディンスキーはマルクを知る前から、年鑑のスタイルをすでに頭の中に描いていたのである。カンディンスキーは同じ夢を共有し、それを具体化するエネルギーに満ちた最高のパートナーを発見したのである。
ところで、カンディンスキーはこの「ミュンヘン新美術家協会」を1911年に脱退する。第3回目の展覧会に出品しようとした彼の作品が拒否されたからだ。マルクやマッケも直ちに脱退。その年のクリスマスにタンハウザー画廊の別室で「青騎士編集部」主催の第1回目の展覧会を開く。第2回目の展覧会は翌年、ゴルツ画廊で開催された。このときには、マルクが感動してベルリンから持ち帰った「ブリュッケ」や、クレーの版画を展示した。実のところ、カンディンスキーは、「ブリュッケ」の評価に否定的であったが、そのことで二人の共同戦線が破れることはなかった。
二人には強力な支援者がいた。フーゴー・フォン・チューディ。ミュンヘンの国立美術館の館長である。第1回目の「青騎士」の展覧会の成立に奔走し、人々がタンハウザー画廊の壁から、カンディンスキーたちの作品をひっぺがそうとするのを懸命にくいとめた。ただし、チューディは1911年に亡くなった。「青騎士年鑑」は、このチューディに捧げられている。
出版社。出版社の名は、ラインハルト・ピーパー。カンディンスキーの「芸術における精神的なもの」も、「青騎士」の最初の展覧会に間に合うように、この出版社から刊行された。この書の大きな反響はパウル・クレーのような画家ばかりでなく、アントン・ウェーベルンのような作曲家にまで及んだ。
協賛者。最初の予想を大幅に上回る経費がかかり、二人の編集者は、財政的援助を求めて走り回った。重い病気にかかっていたチューディを頼ることも出来ずに、ほとんど絶望的になり、カンディンスキーの言葉を借りれば、刊行が「美しいユートピア」となるところへ、一人のコレクターが登場しこの出版を可能にした。彼の名はベルンハルト・ケーラー。アウグスト・マッケの妻の叔父であり、マッケがパリで絵を勉強していた際にも、財政的な援助を行っていた。マッケに教えられて、パリの前衛美術に対して理解を深め、現代美術のコレクターとなった。年鑑に掲載されているゴシック彫刻やセザンヌ、グレコの作品などは彼のコレクションの一部である。
「青騎士年鑑」の意図は、カンディンスキーによれば、「ひとつの作品の外観は全く重要なものではなく、絵画と彫刻、音楽や子供の作品、素人の作品の間には、内面的にはいかなる差もないことを示すこと」であった。したがって、ここに紹介している図版のように、理論的で硬質なテキストとは別に、所々にエジプトの民族芸術や子供の描いた肖像や日本の美術などが、マティスやピカソなどの当時の前衛美術と一緒にちりばめられている。テキストとしても二人の編集者自身による絵画理論以外に、カンディンスキーの総合舞台劇脚本である「黄色の響き」、民族美術と現代美術との共通性について語るマッケの「仮面について」、アルノルト・シェーンベルクの「歌詞との関係」が掲載され、さらにはウェーベルンのシュテファン・ゲオルゲの歌詞へ寄せたスコアも掲出されている。
それでは、タイトルの由来について。1911年の6月19日にマルクヘ宛てた手紙を読むとカンディンスキーは、最初、「鎖」というタイトルを予定していたことが分かる。このタイトルには、この書物のより具体的な内容が示されていると見て良い。つまり、全ての芸術を結びつけ、同時に過去と現在の芸術を結びつけるものとして。それでは、タイトルが「鎖」から、より詩的に聞こえる「青騎士」に変更されたのは何故だろう。カンディンスキーは1930年に、このタイトルの成立について次のように説明している。「我々(カンディンスキーとマルク)は二人とも青を愛しており、マルクは馬、私は騎士が好きだった。かくしてその名前はひとりでに浮かんできた。」
我々は表紙に騎士の姿と騎士を見上げる人物の姿を認めることが出来る。これらを竜を退治する聖ゲオルギウスと救われる王女とみなすことで多くの意見は一致している。ただし、カンディンスキーの中では黙示録に登場する白い騎士の姿や馬の姿にも重なりあっていたようだ。カンディンスキーは、1900年の初頭から、「青騎士」と題された作品も含めて数多くの騎士の姿を描いていた。一方で、1912年にマルケはこの年鑑の予約のための案内文で次のように説明している。「芸術は今日、我々の先達が予想もしなかったような道を歩んでいるのだ。新しい作品を前にすると夢見がちになり、あの黙示録の馬の響きを聞き取るのだ」
次に青について。マルクが刊行しようとしていた雑誌の名前が「青い画帳」であったこと、ドイツロマン主義の代表的作家であるノヴァーリスの有名な「青い花」、象徴主義の作家メーテルランクの「青い鳥」にみられるように、青への幻想的な憧れと神秘的で象徴的な意味づけがこの時代にあったと考えられる。何よりも、「芸術における精神的なもの」でのカンディンスキー自身の言葉が端的に説明する。
「青は典型的に天上の色彩である。」
最後に、未完のプロジェクトとなった「年鑑」の第2号について。編集者として二人は直ちに活動を始めた。原稿を要請し、図版を集めること。第1号に寄せられたテキストは全て芸術家自身によるものであった。というのも、カンディンスキーはこの当時、批評家というフィルターを通すことなく、直接的に人々に語りかけようという方針を持っていたからである。しかし、第2号ではカンディンスキーとマルクは、ヴォリンガーやドイプラーなどの美術評論家やカーレといったエジプト学者にも寄稿を依頼する意向をもっていた。それは、彼らの研究に芸術家の探求との深い部分での共通性を認めたからである。一つの事実が第2号の刊行を不可能にした。1914年3月に第2版は刊行されたものの、第3版をカンディンスキーは拒んだ。「私は第3版に反対した。なぜなら、マルクが死んだからだ。」さらに、最高の協力者であったマッケも死んだ。マルクとマッケはともにフランスの戦場に倒れた。こうして、ミュンヘンは芸術の中心地としての位置を失い、短かった英雄的な時代は終わる。こうして、騎士の姿は再び遠ざかるのである。
1.カンディンスキーによる表紙 2.中扉 3.4.5.エジプトの影絵 6.アントン・フォン・ウェーベルンの歌曲「かまどに歩みよれば−シュテファン・ゲオルゲの詩集「魂の四季」から−」、作品4、1908-1909年
7.子供の絵 8.ニコライ・クルビンのテキスト「自由音楽」(Die freie Musik)のデザイン化されたタイトル文字
9.日本(風)のスケッチ 10.ベニンのブロンズ彫刻 11.目次(Artikel)のデザイン化された文字 12.マルクによる「馬」
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