二人の女性の身体から発せられた声は、身体が秘めている力を改めて感じさせてくれた。どちらの声も、聞き手を圧
倒するパワーと、美しい響きをもつ。しかし同じ身体から発せられるのに、その美しさはまったく異なっている。パ
フォーマンスの後、練習方法や歌い方などについて、それぞれの歌手が自らの経験を語り、その違いを確認した。続
いて行われたトークでは、文化人類学の見地から日本の声の文化について、多様な例を引きながら、山口昌男が語った。

松波千津子(オペラ)

ベルカントというのはイタリアでは「美しい歌」という意昧なんです。17世紀後半から18世紀前半にイタリアで成立した「美しい声による唱法」といわれています。

「美しい声」にはいろんな要素がありまして、まず自然が一番ですね。自然な声で、無理、むらがなく、柔らかく美しく響くというのが条件なんですけれども。

それをするにはかなり大変です。練習方法はいろいろありまして、まずボカリッツィといわれる母音唱法ですね。これは体育でのウォーミングアップ、ピアノでしたら指慣らしにあたるものです。音が変わっても、音階が上下しても、母音を滑らかに、変化がないように練習します。そして共鳴点というのを捜さなければなりません。これがとても大変なのです。共鳴を当てる位置で周じ高さの音でも響きがまったく異なります。最初はわからないんですけれど、ある時自分の声が響いてくるという感覚がわかるんです。それは今言ったように自然体で、声が前に飛んでいるという状態です。そこが共鳴点なのです。

 

山口昌男トーク

日本文化における雑音としての声

 人間の声というのは、いろいろな器官を動員して作られるものです。口蓋や喉を動員しながら、その組み合わせによって、いろんな声が出せる。そのため、文化によって左右されるところが大きいようです。先ほど歌われた松波さんは、オペラの声では声帯を開くと言っておられました。けれども、声帯のすこし上の部分に仮の声帯というものがあって、それを広げたり縮めたりすることによって、倍音を強調した声が出されるそうで、オペラの伝統とは異なり、例えばポピュラー音楽の声ではこの部分を使うことが多いようです。この種類の発声は、下品だと言われることが多い。澄んでいない、邪魔な要素がいろいろ入っているからという理由だからだそうですが、これは文化・伝統の違いといえるのであって、この邪魔な部分を活かしていこうとする文化もあります。先ほどのパフォーマンスでいえば、オペラの声ではなく、モンゴル民謡の声です。

 日本の演劇や音楽においてはさらに極端で、声は必ずしも明瞭なものとして使われてきたわけではありませんでした。時には雑音とか非音楽といわれる、音楽の意味を構成する単位以外のもの、雑音に近いような声、外国人が聞いたら声ではないような声にも、いろいろと役割が与えられていました。演劇は古代の儀礼から発生しているものが多いわけですけれども、まず儀礼において、そういう雑音がいろいろな役割をしめていたのです。

 一番よい例が、吠声(はいせい)です。古代京都の宮廷において薩摩隼人が征服されたあと、彼らは大手門付近で控えさせられ、貴族が宮中にいくとき、吠声という声をあげたと言われています。この吠声というのは、犬の鳴き声のことです。大和朝廷の最後の被征服民である薩摩隼人が、そういう音を出す。そうして境界をマークするという役割を与えられたわけです。宮廷は整然としているのに対し、外は混沌としている。多くの文化では移行ということに非常に危険が伴うと考えられています。危険だからあえ
て、混乱した音を使わせる。薩摩隼人の吠声はそういう役割を果たしていると思われるのです。

 同様の声には、大名行列のシタニーシタニーという声があります。警蹕(けいひつ)もそうだと考えられます。

 このような意味のない声は、能における、鼓とともに出される掛け声に引き継がれたと言えます。ヨォーというあの掛け声です。この声も、初めて聞く外国人にとっては不可解で動物の声かと間違えるものです。このように日本文化においては雑音というものを取り入れながら、芸術表現が行われる傾向が続いてきたのです。

 そして、中野純という人によりますと、現在このような傾向は、平家琵琶の平曲、謡曲、浪曲、薩摩を中心とした盲僧琵琶、長唄、義太夫、清元、詩吟などに受け継がれており、これらは全ていわゆる雑音に近い声です。これは演奏している人も気がついていない。そればかりではなく、祝詞の発声、お経も同様の声です。そして実は現在のポップスのユーミンだとかサザンオールスターズなんかもその系統をひいていると言えます。

(採録 A.F) 

 
写真撮影/南部辰雄

 

伊藤妙子(モンゴル民謡)

 オルティンドーというのはモンゴルの東の地方の歌で,「長い歌」という意味です。拍のない、どこからともなく始まって、どこからともなく終わる歌です。

 出だしは地面の上からはじまり、山を降りたり昇ったりしながら、最後は煙が天にのぼっていく感じで消えていくように歌います。モンゴルはだだっぴろくて、区切りというものがないんです。永遠に回転するように、息をくるりくるりとまわすように歌いなさいと私は先生から言われましたね。

 モンゴル民謡を勉強した日本人というのはほとんどいないので、すばらしい練習方法というのはいまだありません。先生が一回アーと歌って、じゃあ、おまえ歌えと・・それだけです。口で真似して、身体で真似して、毎日それの繰り返し。質問するのはあきらめる。ひたすら真似をする。馬鹿になってただただ繰り返すという、過酷でルーズな練習でした。