聖人と人聞
ハウベと呼ばれる帽子、豊かなヴォリュームのパフスリーヴをもったドレス、豪奢にして鮮やかな色のマント、そして胸衣で覆われた襟元を飾る赤真珠とペンダントの首飾り。そうした16世紀初頭の流行服や装身具を身に着けた女性像は、慈愛に満ちた面もちで虚空を見遣る。わたくしたちは、その姿に、おそらく言葉では言いあてることのできない何らかの「聖性」を感じとることができるでしょう。
この女性は、テューリンゲンの聖エリーザベト。1207年、ハンガリー国王の王女として生を得た彼女は、14歳でテューリンゲンの領主ルートヴィヒのもとに稼ぎましたが、わずか六年後に夫に先立たれます。未亡人となったエリーザベトは、1228年にマールブルクで小さな救貧院を設けて、貧しき者と病める者たちの世話に一生を捧げ、24歳にして夭折しました。四年後、彼女はその善行ゆえに「テューリンゲンの聖エリーザベト」として聖人・聖女の列に加えられるのです。
この女性像に感じとることのできる聖性は、まず第一に彼女の慈悲深い表情に負っています。しかしながら、わたくしたちは、各々の手に握られた水瓶とパンが窮せる者たちへ施されようとしている飲物と食事を暗示していることを知り、さらに静かな動感をたたえる彼女の両肩や、全体の構成を破綻させることなく屈曲する衣服の襞と皺といった部分に造形的な完成度の高さを認めるにいたり、キリスト教を信仰しているか否かにかかわらず、心地よい緊張感と安息を得るにちがいありません。
さまざまの聖人への崇拝は、中世末期、つまり14世紀頃ににわかに高まりました。戦争と疫病の恐怖や不安に駆られたひとびとは、日常のあらゆる場面局面で聖人に拠り所を求めたのです。そして、聖職者たちは、耳で聞き取ることよりも、目で見たことの方がひとびとの感情を呼び覚ますと信じて疑わず、そうした信仰上の要求に応じて、一種の「信仰の手引き」として天上と地上とを仲介する聖人たちの像を表わした絵画や彫刻がおびただしい数つくられることを正当と認めていました。
どの聖人の姿なのかを常に判りやすく示すために、すべての像は各々の物語に応じた固有の持物で特徴づけられ、さらにそうした聖人像がひとびとの現実生活へ一層接近するにともなって、彼ら彼女らの身に着けた衣服は個々の像が造られた時代の流行を直接に反映するものへと変わってゆきました。中世美術が絶頂期を過ぎて燗熟の時を迎えた15から16世紀にいたり、とりわけ聖女の像は、一層明らかに世俗の女性の姿を映し出すものとなり、過度の装飾を凝らした衣装を身にまとい、時に優美に、時に媚態を演じて、人々の眼前にたたずむように変容を遂げるのです。それは、新たな時代の息吹を感じさせる一方、宗教改革前夜のキリスト教美術が被った枯死の姿を示しているのかもしれません。
(R.T)
ハンス・ジクスト周辺の彫刻家
<テューリンゲンの聖エリーザベト>
1520/30年
写真撮影/南部辰雄
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