「イベントーク」Part3 第2回のテーマは映像メディアと身体の関係。写真が及ぼしてきた身体への影響について写真評論家・飯沢耕太郎が講演。引き続き、寺山修司監督の実験映画「ローラ」を上映した。この作品は、フィルムの映写と人間の行為が連動した一種の映像パフォーマンスで、虚像としてしか成立しない映像の中の「身体」というものを、生身の肉体と関連づけることで明解にあぶり出している。上映終了後には、コーディネーター・萩原朔美と当日のゲスト2人による鼎談が行われ、演劇と映画を横断的に捉えていた寺山の方法論、身体観についても話題が広がっていった。 

 

イベントークPart3 第2回

「越境する身体 逸脱するからだ」

1994年1月21日(金) 飯沢耕太郎 講演より

19世紀、写真は身体を固定化し、数値化する装置であった。

今、写真というものは、皆さん、日常的、経験的によくご存知だと思うんですけれど、実はそんなに歴史の古い物ではないわけです。一番最初の写真技法と言われるダゲレオタイプ、いわゆる銀板写真の発明がフランスで公表されたのが1839年ですね。ちょうど19世紀の半ば位です。これは、いろんな意味で人間の歴史そのものに非常に大きな変化があった時期だと思うんですね。政治的にも経済的にも文化的にも非常に大きな革命が起きてきて、フランス革命なんかは代表的なものだと思うんですけども、旧時代の秩序が壊れていって、ちょっと難しい言い方をするとパラダイムというか思考とか文化の枠組みが大きく変わっていった時代です。19世紀、つまり写真が発明された時期に、近代という時代が始まるわけです。だから写真の発明というのは、近代に伴う合理的、科学的な思考法が出来上がってくるのとほとんど同時だった。写真と近代科学は言ってみれば、異母兄弟のようなものなんです。お互いがお互いを刺激しあいながら、発明され進化してきたといえると思います。そういった近代的な思考法が、身体を見る、考えるということについて、どういう影響を与えたのか。我々にとって身体とは、もともと、非常に近くにありながら解りにくい物ですね。一番身近にある他者と言ってもいいと思います。身体は、非常にあやふやでよく訳が解らない、あるいは固定しないで、流動的に動いていく存在である。我々は生きていますからこうやって身体を動かしていく、その中で身体の輪郭っていうものも大きくなったり小さくなったり伸びたり縮んだりしながら常に移り変わっていくわけですね。そういった謎めいた流動的な身体というものを、19世紀の近代科学的な思考は、秩序づけ、固定化しようとした。また、分類していったり、測定して数字化していったりとか、あるいはこれとこれは同じでこれとこれは違うんだという一種のアイデンティフィケーション、同定したり構造化したりする物の見方が19世紀に出来上がってくるんです。実はこういう物の見方は、その当時は写真と同一視して考えられる場合が多かった。本来はもっと自由なはずの写真的な物の見方というのが、本来はあやふやで流動的な身体を固定化していく見方と重ね合わせられていた。

こうした19世紀的な身体観によってからめ取られた身体を、逆に今度は救いだそうという試みを写真を通じてやろうとした何人かの写真家たちの作品を見ていただきたいと思います。つまり、そういった非常にこわばった檻の中に閉じ込められてしまった身体を、もう一回本来の生き生きとしたあやふやで流動的な存在として取り戻そうという試みです。

19世紀パリ警視庁の書記、
アルフォンス・ベルティオンによる犯罪者の計測写真1893
Alphonse Bertillon
IDENTITIES - DE DISDERI AU PHOTOMATON
(CENTRE NATIONAL DE LA PHOTOGRAPHIE 1985) 所収

ダイアン・アーバス
ハンディキャップを負った人々を「肉体の貴族」として見る。

ダイアン・アーバスは、1923年に生まれて71年に自殺してしまったアメリカの女性の写真家で、60年代に6×6センチ判のカメラを使って一般的にフリークスと言われている人達のポートレートを撮っていた人です。奇形の人達と言いましょうか、ここに写っている3人の老婆はこうやってよく見ないと解らないと思うんですが、いわゆる小人の人達ですね。サーカスとかカーニバルの芸人だった人達だと思うんですけど、そういう存在に非常に彼女はひかれて、取り憑かれたようにそれを撮り続けていったわけです。彼女はそういったフリークス達を決して、19世紀の犯罪者を見るような視線ではなく、むしろ尊敬をはらって眼差しを向けている。別の言い方をしますと、身体に本来備わっている尊厳というものを、こういったフリークスの人達の身体を通して回復しよう、させよう、そういう欲求に取り憑かれた人だと思います。アーバスが実際自分で言った言葉の中に、こういう人達はもともと貴族なんだ、肉体の貴族という言い方をしているくだりがあります。普通の人達というのは自分の身体にコンプレックスを抱いていたりとか、気に入ってる部分と気に入っていない部分があったりして、悩んだりしてる場合があるんですけども、こういった人達はそれらを最初から超越している。もともとこういう人達の身体というのは非常に尊厳に満ちた貴族の身体なんだという言い方をしている。確かに彼女の写真を見ると、そういう言葉がある程度ご納得いただけるんじゃないかと思います。

ダイアン・アーバス
「1OO番街のあるリヴィング・ルームに集まったロシア系の小人仲間、
ニューヨーク市」 1963
Diane Arbus "Russian midget friends in a living room on 100th street, N.Y.C"
「ダイアン・アーバス写真集」(筑摩書房 1992) 所収

ジョエル=ピーター・ウィトキン
グロテスクな肉体が、内在化する力を回復させる。

アーバスの持ってる視線をもっと徹底してしまうと、このジョエル=ピーター・ウィトキンという1939年生まれのアメリカの現代写真家の作品につながっていきます。ウィトキンは、現在でも活発に作品活動を続けていますが、彼の世界というのは、今日後で映画をお見せする寺山修司さんの世界と非常に近いものがあると思うんです。要するに人間の肉体の持っている本来的な力を回復させる為に、カーニバル的な祝祭性とか、演劇性やドラマといったものを使って人間の身体の可能性を探りだそうとしているところがある。この写真の中に登場してくるのは、真中に女の子がいますけど彼女はフリークス、小人です。また、何かグロテスクに見える肉体の人物たちが散らばっています。この画面全体は、ベラスケスの有名な「ラス・メニーナス」という絵をそのままもじっている。こういった名画、既に出来上がってしまった秩序、権威となってしまったものを、もう一度フリークスの身体を使ってひっくり返し、転倒させることによって、肉体の持っている過剰な部分、グロテスクな部分を明るみに出していこうという試みじゃないかと思います。

ジョエル=ピーター・ウィトキン 「ラス・メニーナス」 1987
Joel-Peter Witkin "Las Meninas"
Joel-Peter Witkin (Centro de Arte Reina Sofia 1988)所収

森村泰昌
電子メディア社会の中で逸脱する「過剰なる身体」。

メディアの中での虚像に自分が成り変わってしまう、というパフォーマンスをずっとやっているアーティストの一人に森村泰昌がいます。彼がやろうとしていることは、言ってみれば現代の記号化された電子メディアの中で身体性、つまり実物と虚構、現実と偽物という境目が非常にあいまいになってしまってる我々の身体の状況を、もう一回クリティカルに批評的にとらえ直そうという試みだと思うんです。既に我々の頭の中にあるイメージを使って、それを一種のパロディとして再解釈するという試みをやっているわけです。これは、セザンヌのリンゴの絵なんですね。そのリンゴの一個一個をよく見ると、森村さんの顔がリンゴの中から見えてくるという、なかなか怖い作品です。これはコンピューターグラフィックスを使っています。銀塩を使った写真じゃなくて、コンピューターグラフィックスを使ったイメージで作りあげていくと、こういう絵の中に自分目身の身体を溶け込ませる作業というのが、ものすごいスムーズでリアルになってくるんですね。これは、一種、バイオ科学で生命が誕生していくみたいな、そういう不気味さ、怖さっていうのを感じさせます。コンピューターグラフィックスを使えばこれに似た作業で自分自身のからだの身体性を非常に記号化した形でどんな場所でも出現させることが出来るような、自在な感覚が表現できるわけですね。一種のからだを使ったゲームです。それを、画面の中で行うことが出来る。ただ、森村さんの身体性というのが、単純に記号化された、数字とか記号で置き換えられるような身体なのかというと、ちょっと違うような気がするんですね。というのは、彼は常に自分自身でこういうふうなリンゴを演じたり、あるいはマネの絵の女性を演じたりするわけですね。森村さんは、年齢不詳なんですけども、小柄な、きゃしゃなからだの日本人です。ですから、マネとかゴッホの絵を演じると当然、我々の頭の中のイメージと彼自身の演じた絵のパフォーマンスの間にズレが生じてくるわけですね。このズレというのが彼の作業を大変面白い物にしている。どうやっても、セザンヌのリンゴそのものにはなりきれないわけですね。そこに逆に身体の持っているどうしても記号化されない部分が見えてしまう。
だから彼は、一見すると電子メディアの中で戯れているような、ゲームを楽しんでいるようなそれだけのアーチストにも見えるんですけども、実は彼が一番考えているのは、やはりダイアン・アーバスとか荒木経惟さんと同じような身体性を、どうやって電子メディア時代に作りだしていくかということのような気がするわけです。この写真にも、それがよく表れていると思います。

森村泰昌 「批評とその愛人B」 1990
Yasumasa Morimura  "Criticism and the Lover B"
「日本のコンテンポラリー」展カタログ
(東京都写真美術館1990)所収

寺山修司
人間は「血の詰まった袋」である。

写真にとって身体というのはかなり本質的なテーマでして、人間という存在が謎に包まれて、今だに人間とは何かという問いかけに僕らも答は出せない訳ですけど、そういった謎めいた人間という存在がある限りにおいては、写真家たちも人間を撮り続けるだろうし、人間を撮る時に身体を抜きにはできない、といえると思います。寺山修司さんの言葉で、人間は血の詰まった袋である、という言い方がありまして、人間という非常に崇高な精神的な存在だと思われているものを、もう一回血の詰まった袋という物質的な物に引き戻すことによって、逆に人間の存在の可能性を拡張しようという、彼自身の一流のレトリックですが、そういう認識というのは写真家たちも共通して持ち続けてると思います。結局のところ、19世紀以来の写真家たちの試み、特に現代の写真家たちの試みというのは、人間という存在が持っている滑稽な部分も猥雑な部分も、それから崇高な部分も全てひっくるめたありのままの人間というか、ただの人間というのか、その身体のイメージというのをいかに回復していくか、あるいは改めて新しく作り出すということが出来るかという、そこに賭けられているような気がします。写真と映画の違い、あるいは写真と演劇の違いというのが幾つかあると思うんですけども、そういったものを越えた身体に対する欲求を寺山さんの映画も通じて見ていただきたいと思います。

(採録・構成 T.E) 

 

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)
写真評論家。1954年、宮城県生。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程修了。現在、写真誌「デジャ=ヴュ」編集長。主な著書/「ヌード写真の見方」(新潮社)、「写真に帰れ「光画」の時代」(平凡社)、「都市の視線 日本の写真1920〜30年代」(創元社)、「写真の力」(白水社)、「写真の森のピクニック」(朝日新聞社)、「写真とフェティシズム」(トレヴィル)他。

 

寺山修司監督 ローラ (16m/m 1974) 出演:森崎偏陸

 写真撮影/南部辰雄