亡命する芸術
1910年代から40年代の芸術年代記を作るとすれば、二つの世界大戦とロシアの社会主義政権成立の衝撃によって起こった数多くの芸術家の亡命が、一本の縦糸のようにも見えてくる。
長い芸術史において、芸術家の移動は、常に新しい芸術を生み出す機縁となった。20世紀のみを取り上げてみても、1908年にキュビスムをブラックと共にパリで作りだしたのは、バルセロナから移ってきたスペイン人のピカソであったし、1910年代の前半にミュンヘンで抽象絵画を生み出していったのは、モスクワ出身のロシア人カンディンスキーである。
ただし、これは亡命ではなく、移動である。移動と亡命が異なる点は、移動は後戻りが可能であるのに対して、亡命がある輪の中から「どこかへ」とその者を押し出し、後戻りが不可能という点にある。
ヨーロッパの前衛画家のすべてが亡命と結び付いていたわけではない。第二次世界大戦中、マティスやピカソがドイツの支配下に入ったフランスでその制作活動を続けることができたことからもわかるように、亡命する必要があったのは、ユダヤ人芸術家と体制に批判的だとみなされた「退廃芸術」を生み出すドイツ人芸術家とマルクス主義者である。トーマス・マンのように、言ってみれば、純正のドイツ人でありながら、ヒトラーが体制として愛顧したヴァーグナーを批評したために、亡命する羽目になった文学者もいる。
その亡命も、ドイツ国内からの亡命とヨーロッパ大陸からの二回の亡命のタイミングによって、生死を分けたようだ。芸術家が状況判断に疎かったことは、家族に急かされてようやくスイスに帰郷したクレーや講演会場から亡命したトーマス・マンのエピソードに伺われる。例えば、世知に疎いエルンスト・ブロッホは素早い状況判断で、1933年にチューリヒに亡命した後、1938年にアメリカに移住することができたが、同じように世知に疎いベンヤミンはブロッホと同じ年に、パリに移住していたものの、ナチスに追われ、結局、1940年にスペインで自殺して果てた。
亡命者は、それまで住んでいた土地を離れることで地位の面でも、金銭の面でも一から出直すことにる。その再スタートは職業によって異なる。亡命しても、比較的幸運だったのは、アメリカとヨーロッパで共通のスタイルをもち、アメリカがヨーロッパに比較的遅れを取っていた分野である。例えば、建築。バウハウスの校長であったヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエはアメリカで国際様式の建築を推進させた。そうして、ファン・デル・ローエは機能に純化された結晶のような建築で、シカゴを硬質なモダンな都市へと変貌させた。(前ページ写真)あるいは音楽家。アメリカではヨーロッパに比較して、まだ劇場の教も少なく、まだヨーロッパほど演奏技術が成熟していなかったこともあり、クレンペラーは共通の楽譜を用いて、音楽を指揮することが出来た。
また、1900年代の初めごろから高まったアメリカ人のヨーロッパ前衛美術への関心のために、エルンストやモンドリアンのように既に名をなした芸術家の場合には、頼るべき画廊やコレクターが存在していた。更に、アメリカもまた新しい近代社会に適応できなくなったアカデミーに代わる新しい芸術教育を必要としていた。そのため、バウハウスの教師であったモホリ=ナジやアルバースは、ドイツでいち早く成立した理想的な芸術システムを実践する教育者としてアメリカで生計を立てることができた。モホリ=ナジはナチスの手で廃止に追い込まれたバウハウスをシカゴで再出発させた。そうして、シカゴの街角には「驚き」が時に秘めやかに我々を襲う(7ぺージ写真)のである。アルバースは、新しく開設されたノースカロライナの大学で教鞭をとった。彼らは明解な造形分析と素材認識に基づく制作を行なうことを試み、その成果はアメリカ戦後の工業デザインの領域で幅広く応用されていった。ただし、ドイツ人が伝えたのは機能的なバウハウス様式だけではない。ハンス・ホフマンのように、自分の学校をニューヨークに開設して、ポロックのアクション・ペインティングのような全く新しい絵画を生み出す原動力になった芸術家もいる。
アウシュビッツで燃やされてしまった人々よりは、はるかに幸福なことであったが、ヨーロッパにおいては有名でありながら、亡命の地ではその生活手段を奪われてしまった人もいる。ドイツの在野の思想家ブロッホは、造形芸術のように目に見える共通の「形」を造りだすわけでもなく、学問研究のような国際的なネットワークを持っていたわけでもなかった。
ブロッホは大学の外で活躍する思想家であった。彼が数多くの知識人に、その類いまれな天才を認められながらも、初めて大学機関で職を得ることが出来たのは1949年、64才の年であった。ドイツ語のメカニズムを最大限駆使して展開される思想内容は、マルクス主義を基礎にして哲学からオペレッタ、政治から推理小説にまで及ぶ。アメリカの地にあっても最後まで職を得ることができなかったのは、彼の異端哲学ともいうべきその独創性のためである。しかし、彼の思想的到達点は、実に単純な一点でありながら、同時に実に困難な一点にも見える。それは常に現実を批判し、20世紀が陥りやすいニヒリズムと戦いながら、徹底的に「まだ・ない」未知のものを目指すこと。彼の主著は何よりも、あの大著「希望の原理」であり、出版されるあてもなく始められ、これはアメリカ亡命中の10年間(1938年から1947年)の間に書き上げられた。この書は次のような出だしで始まる。
−−−−−「私たちはからっぽから始める。」
ブロッホのアメリカでのスタートも、また、「からっぽ」であった。ブロッホは、一時期ニューヨークのレストランで皿洗いのアルバイトをしていたらしい。ブロッホの妻はドイツでは建築家であったが、アメリカではカフェのウェイトレスもしていた。二人ともお金がなかったのである。
ブロッホの優れた才能を高く評価していたアドルノは、彼の深い思想内容を紹介した上で、大思想家ブロッホがよりによって上のような窮状に陥っていることを雑誌に報告し人々に援助を訴えた。そうして、窮状を公表されたブロッホとレトリカルに援助しようとしたアドルノの間には誤解が生じた。
ただし、我々からすれば、ブロッホに大学の口がなかったことが今となっては幸いしたように思える。彼のライフワーク「希望の原理」は、そうした状況でアメリカの図書館に閉じ込もる形で、書き上げられた。異国での孤独な作業の中で、その独創性には磨きがかかり、我々の財産となった。
実は、このブロッホは生涯に四回亡命した。一回目は1917年。もともと、ブロッホはひどい近眼で兵役は免除されていたのだが、スイスのベルンに「研究目的」で移住した。二回目は1938年で上記の通り。三回目は、アメリカから旧東ドイツヘ、四回目は旧東ドイツから旧西ドイツヘの亡命である。
三回目について。第二次世界大戦が終わったのも束の間、アメリカが急速に強力な社会主義国家となったソ連との対立に向かい、アメリカ国内の社会主義者に対する弾圧が始まる。そして、ブロッホとも親交が深く、思想的にも通じるところのあるブレヒトが警察に召喚されるようになった。実を言えば、ブロッホは亡命ドイツ人の間ではマルクス主義者として有名であったが、出版される予定のない「希望の原理」の執筆に没頭するブロッホの名前は表だってそれほど警察には知られていなかったらしい。ブロッホは旧東ドイツにあるライプツィヒ大学から、哲学研究所の哲学教授として招かれ、マークされることなくアメリカから亡命した。
四回目。マルクスの思想的成果をラディカルに現実に適応させ、旧東ドイツ政府とお抱え思想家の形式的なマルクス理解を批判するブロッホの独創性は、政府を激しく怒らせることになる。修正主義者という批判を受けたブロッホは、西ドイツに講演に出かけた際、ベルリンの壁が作られたのを知り、そのまま旧西ドイツに留まって、チュービンゲン大学の哲学教授となった。こうして、旧西ドイツに生まれたブロッホは、亡命を繰リ返して最後に旧西ドイツに戻ってきたことになる。この時、76才。そして、この地で92才になるまで、あの「まだ・ない」点を捜し求めつづけた。
亡命とはある場所からある場所へ余儀なくはじきとばされることであった。考えてみれば、ブロッホが「まだ・ない」点を捜し求めることは、硬直化する現在を思想的に流動化させて、自らをその場からはじきとばすことに他ならない。とすれば、ブロッホは常に精神的に亡命していたのである。
ジャコメッティは、この意昧でパリ内部の亡命画家であるということになるだろう。描いては塗りつぶし、描いては塗りつぶす行為は、苦しみながら獲得した一定の成果を塗りつぶして、その度ごとに、「まだ・ない」完成点を捜し求める行為だった。その内部亡命の過程はモデルとなった矢内原が我々に伝えている。
そして、マルクに描かれた小鳥たちは、「まだ・ない」土地を力強くそして無邪気に捜し求める。まだ、戦争は始まっていない。しかし、我々は知っている。マルクが夢見た小鳥たちの到着点もまた、矛盾をはらみ、鳥たちは内側から操り返し「まだ・ない」土地を捜し求めることになることを。夢見るかぎり、鳥たちも亡命を繰り返す他はないのである。
つまり、20世紀美術は最初から亡命しているのである。
(M.H)写真とも
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