色彩の宇宙 クプカ展

 チェコ出身のフランティシェク・クプカ(1871-1957)は、カンディンスキーやモンドリアンと並ぶ抽象画家のパイオニアのひとりとして、20世紀の美術史に大きな足跡を残した画家です。世紀末のプラハとウィーンで学び、華麗なアール・ヌーヴォーと象徴主義を吸収した彼の芸術は、今世紀初めのパリで花開き、ありのままの現実を超えて生命の本質に向かう独創的な絵画へと発展しました。

 「芸術作品はひとつの有機的な総体であり、固有の存在としての特質を持ち、それ自身の生命を生きるものでなくてはならない」とクプカは語っています。彼は少年の頃から霊媒として活動し、秘教的な哲学に傾倒するとともに、最新の自然科学の知識をも熱心に学んでいました。そういった人間の知的な営みのすべてを総合して、私たちの目に映る現象の奥にある「もうひとつの現実」、すなわち、この宇宙の根本的な原理を絵画によって表現することを、彼はめざしていました。1908年から1912年にかけての、絵画の新しい空間と運動の表現に関する一貫した探求を通じて、「垂直」と「円環」というふたつの本質的なテーマを見いだしたクプカは、いちはやく純粋な抽象の作品を生み出し、公衆の前に呈示しました。ほぼ同時に抽象絵画にたどり着いたパリの画家たちの大半が、第一次大戦後にふたたび現実的な主題に戻っていったのに対して、彼はあくまでも独自の抽象のテーマをさらに深く掘り下げることに集中しました。その作品は彼自身の想像力から生まれた色彩と形のヴァリエーションによって、細胞分裂や植物の生殖のようなごく小さな世界から、宇宙全体の絶えまない生成までを貫く、あらゆる生命の根源、その創造と変容のエネルギーを私たちに伝えています。

 孤高の道を歩んだクプカの芸術は、生前にはあまりに特異なものと見なされ、充分に知られることがありませんでしたが、彼の死後その全体像が明らかにされ、近年ますます高い評価が与えられています。

 今回の展覧会は、プラハ国立美術館、パリ国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)、ニューヨーク近代美術館をはじめとする世界各地の主要なクプカ・コレクションの協力を得て、油彩・水彩・素描など約130点の作品により、日本で初めてクプカの芸術の全貌を紹介するものです。
 

クプカ年譜

1871 9月22日、東ボヘミアのオポチノに生まれ、近郊のドブルシュカで育つ。
1884 馬具職人の徒弟として働きながら、店の看板や聖人の絵を描く。
1888 プラハ美術アカデミーの予備クラスに入学、歴史画・宗教画を学ぶ。降霊術によって生計を立てる。
1892 プラハ美術アカデミーを卒業後、ウィーンの美術アカデミーで学ぶ。哲学、宗教、歴史、自然科学など、あらゆるジャンルの書物を乱読する。
1896 パリに移り、モンマルトルに住む。象徴主義的な作品を制作。さまざまな雑誌や書物の挿絵を描く。
1906 パリ郊外のピュトーに転居し、生涯ここに暮らす。
前衛的な「サロン・ドートンヌ(秋のサロン)」に初めて出品。
1908 フォーヴィスムの影響を経て、写実的な技法から次第に離れ、<ノクターン><ニュートンの円盤>など11の作品によって抽象に到達する。
1912 サロン・ドートンヌに2点の<アモルファ>を出品、純粋な抽象絵画を初めて公開する。
1919 第一次大戦により中断された制作活動を再開、<生命力ある線><冬の記憶>など、大画面の抽象絵画を精力的に描き続ける。
1921 パリで最初の個展。
1924 芸術論「造形芸術における創造」をプラハで出版。
1926 木版画集「白と黒の四つの物語」を出版。
1931 パリの抽象芸術グルーブ「抽象=創造」の結成に参加。幾何学的な抽象作品を描き始める。
1946 プラハで生誕75周年記念回顧展。チェコスロヴァキア政府が多数の作品を購入する。
1956 ニューヨーク近代美術館が作品を購入。
1957 6月24日、ピュトーで没。没後、パリ国立近代美術館(1958)、プラハ国立美術館(1968)、グッゲンハイム美術館(1975)、パリ市立近代美術館(1989)などで大規模な回顧展が開かれる。
1963 妻のウジェニー没。油彩画50点を含む多数の作品がパリ国立近代美術館に遺贈される。
 
〈記念講演会〉
1994年3月26日(土)1:30PM〜
「クプカの生涯と芸術」
高見堅志郎(武蔵野美術大学教授)

1994年4月16日(土)1:30PM〜
「抽象絵画の見かた」
本江邦夫(東京国立近代美術企画・資料課長)

会場=愛知芸術文化センター12階 アートスペースA