ガスリーシアター(アメリカ)
−レジデント劇場の代表−

 最近何かと話題の多い「リージョナルシアター」は、ミシシッピー川を挟んで隣接するツイン・シティーズ(ミネアポリス市とセントポール市)の「ガスリーシアター」に始まる。ガスリーとは、タイロン・ガスリー卿、ロンドンの「オールドヴィック」劇場の芸術監督、カナダのストラットフォードのシェイクスピアフェスティバルの守護神として著名な人物のことである。

 1959年3月、セントラルパークに面したプラザホテルで3人の人物が朝食を取っていた。ガスリー卿とプロデューサーのオリバー・リー、劇場マネージャーのピーター・ザイスラーである。ブロードウェイに満足できない彼らは古典的名作を中心にしたレパートリーシアターをニューヨーク以外に誕生させようと考え、『ニューヨークタイムズ』紙に広告を出した。立候補した7つの都市の中からミネアポリスが選ばれた理由は色々あるが、基本は観客との友情関係が期待できたからであった(日本のパブリックホールが参考にして欲しい話である)。

 1963年、非対称形の舞台を持つ張り出し舞台とすべての客席が52フィート以内に納められた劇場がオープンした。柿落としはガスリー演出「ハムレット」。以後30年、成功の影に慢性的赤字との闘いがあったことも忘れてはならない。その度に演劇人は演劇の大切さを主張し、行政、企業、財団そして何より一般市民の理解を求めた。劇場の理事会に地域の一般市民が入閣するアメリカ型の運営システムは学ぶところが多い。市民の理性に信頼を置く陪審員制度にも似ている。

 現在の芸術監督ガーラント・ライトは1986年より二期目の5ヵ年事業を成功裏に進めている(単年度予算でしか考えられない日本のシステムはどうにかせねばならない)。ガスリーシアターは、この他GATEプログラムという養成システムも開発しアメリカのレジデント劇場の看板でありつづけている。
 

トラバース劇場(イギリス)

 トラバース劇場は、1963年イギリス北部エジンバラに誕生した。遠くに海を望む人口45万の美しい町である。1947年から毎年8月の3週間世界的に有名な芸術フェスティバルが開催されている。

 この劇場の母国はイギリスというよりスコットランドというべきであろう。独自の通貨と言語を保持するこの〈国〉は、ロンドンを中心とする文化に激しい対抗意識を持ってきた。そんなある日、自<国>の劇場を願う数人の有志が古い安宿を改築した会員制クラブを作った。当時存在した検閲を避けるために私的な演劇活動という形式を考えついたのである。夜10時以降スコッチを飲める唯一のクラブは熱心な支持者に支えられ、狭い舞台を挟んで両側に60人がやっと座れる空間にアラパール、ジャリ、イヨネスコ、ミシマが上演された。劇団の名称「トラバースtravarse」は、チラシにあった単語〈transverse>の〈N〉という文字がタイプの打ち間違いから消失したために誕生したという。その後、消防法や衛生上の不適格認定を受けホームレスになる危機にさらされた。しかし倉庫を改築した100席の劇場を作ることによって生き延びる(1968年)。

 70年代には市民の支持をバックに行政からも認知され、今やスコットランド芸術評議会が最大の財政支援者となっている。年間予算は100万ポンドに達し、俳優やスタッフにはユニオン(演劇人の組合)基準の給料が支払われ、完全なプロ劇団となった。

 1992年には長年の念願が叶い、二つのホールを持つ複合劇場施設を手にいれた。しかし原点を忘れないように、旧劇場をそっくり再現した「トラバース2」を作った(古きを大切にするイギリスの伝統は生きている)。「トラバース1」は舞台がアリーナ式からプロセニアム式まで自由に設営出来る最大290席の空間である。前衛主義だった「トラバース劇場」も、今や世界中の新作・新演出を紹介するメジャーな劇場に成長し、新作上演は400以上に上っている。

 今年のエジンバラフェスティバルでは、新作オペラの上演も予定されている。

 新劇場のオープン6ヵ月に続いて、エジンバラフェスティバルでは、オフィシャルに対するオフ(「フリンジ」と呼ばれている)を支え、新作の紹介とさらに新しい演劇表現の開拓に意欲を燃やし続けている。
 

テアトロ・ドゥーエ(イタリア)

 ミラノとボローニャの中間に位置する人口40万の都市パルマ市は、演劇史上イタリア式(額縁式)劇場の最高傑作ファルネーゼ劇場で知られている。1628年、時の領主ラヌッチオ公爵の広大なピロッタ宮殿に完成したテアトロ・ファルネーゼでは、モンテヴェルディの音楽に乗って豪華絢燗たるオペラ・バレエ「メルクリウスとアレース」が上演された。それから幾世紀が過ぎ、パルマ文化は王侯貴顕ではなく民衆の運動によって再生する。

 キリスト教的同胞愛に裏打ちされた協同組合方式の芸術鑑賞運動は、パルマに新しい劇場「テアトロ・ドゥーエ」を誕生させた。日本の鑑賞運動はついぞ劇場を持つことがなく、また行政とタイアップした文化運動システムを開発出来なかった。これに対しイタリアでは1976年地域を中心とする市町村文化評議会制度が誕生している。1983年には政府レベルで「民間委託形式の公立劇場」が認めれ、1986年、パルマ市はこれを受けて専属劇団を中心に演劇シーズンをスタートさせた。現在では、春の「パルマ演劇祭」をはじめ、ヨーロッパ俳優会議、音楽祭、演劇人養成プログラム「ファーレテアトロ」を手掛けている。
 

フィリピン文化センター(フィリピン)

 空港でのアキノ上院議員暗殺、マルコス政権崩壊、アキノ夫人旋風。世界の注目を浴びたフィリピンであったが、日本にとっては再び遠い国になっている。まして芸術文化は迂遠な話である。しかし今フィリピンは着実に変わりつつある。マルコス夫人が建てた壮麗なオペラ劇場やアメリカ文化ではなく、豊かで多様な地域文化の中に、民族の誇りとアイデンティティを求める大事業を展開しているからだ。しかし、長い間軽視されてきたために行く手には厳しい現実が待っていた。

 フィリピン文化センター(CCP)は、独裁政治追放後の1988年「フィリピン人によるフィリピン人のためのフィリピン文化の発展」をスローガンに、各種パフォーマンス公演を巡回公演させ、地域の文化交流も手掛けたが、事業展開のための文化施設があまりに不十分であることが判明した。その事実を踏まえ「芸術文化のためのセントロン・バヤン建設計画」が練り上げられた。セントロン・バヤンとは日本流に言えばコミュニティセンターであり、地域人々の交流と舞台公演の場所である。ハイテクを駆使した文化会館ではない。演劇が人間の生死、政治、宗教と同じように人々の日常生活そのものである所では立派なヨーロッパスタイルの劇場は意味を持たない。劇場が人生の讃歌のためにあるならば、地域の喜びと悲しみを体現した施設であらねばならない。フィリピン文化センターの経験は文化政策というものが第一に考えるべき真実を教えている。
 

中国・最近の劇場経営事情

 日本と中国の演劇交流はすでに千数百年の歴史をもっているが、戦後長い間空白が続いた。国交回復以後、北京京劇をはじめ中国の伝統劇団の来日が盛んになり、日本からの派遣も増えている。今後の演劇交流を文化庁レベルから民間レベルヘと広げ幅広い国際交流を実現するには、制作現場での接点を検討すべきであろう。七月十四日開催の「世界劇場会議」に中国青年芸術劇院芸術委員于黛琴氏を招聘し最近の演劇事情を報告していただくが、経済開放政策以降の劇場経営事情を紹介しておこう。

 1950年中国政府の文芸活動推進により劇場は劇団(劇院)付きとなり、全国各地、とくに北京には中国青年芸術劇院の青芸劇場、中央実験話劇院の実験劇場、中国児童芸術劇院の児童劇場、中国京劇院の人民劇場、北京人民芸術劇院の首都劇場など数多くの劇場が誕生した。外国人接待用の梨園劇場(前門飯店内)は海淀影劇院が上演した。以後様々な歴史的経過があったが、1983年に劇場施設の基準が制定され、専門劇場が整備されてきている。

 しかし開放政策以降、国や自治体の援助に依存しない、自助勢力が求められている。日本の「親方日の丸」という意味の中国語「大鍋飯」という表現があるが、それが不可能な時代が来た。また「権力下放」が唱えられ、政府の指導下にあった劇場経営が劇団自身の能力に委ねられた。日本で言う民活、独立採算、分権化が進んでいる。各劇場では、専属劇団の公演だけでなく、一般に開放し収入増を計っている。コンサートや映画など演劇以外の収入を考え、広い施設を利用してホテル、レストラン、ゲームセンター、カラオケ、ダンスホールの経営によっていわゆる営業活動を展開しはじめた。スポンサーシステムや観客サービスも導入し、土地や建物など基本財産をすでに保有しているという羨ましい環境を別にすれば、日本の事情に接近してきている。日本の民間側がもっと積極的にアプローチすべき段階にきているのではないだろうか。