音楽の視覚化
都築正道(中部大学女子短期大学教授)
愛と憎しみのフィガロ
音楽の視覚化といえば、先ずオペラだ。オペラといえば、モーツァルトから始めようか。モーツァルトなら『フィガロの結婚』だ。その第4幕で、新妻のスザンナに裏切られたフィガロは、恨みのアリア「男たちよ、目を開けろ」を歌う。モーツァルトはこのアリアを次のように書いている。
[譜1]
この高い青のメロディと低い赤のメロディの呼応は、なにを意味するのか?オペラ演出の基本は、「総譜をテアター(劇場)化すること」にある。フィガロは、高い声で「女は男を魅惑する魔女だ。男を溺れさせる人魚だ、羽根を引き抜く梟だ、明かりを奪う彗星だ、刺あるバラだ、狐だ熊だ鳩だ」とスザンナをはじめ女性すべてを罵(ののし)るが、そこは人のいい彼のこと、「だがこれ以上言うのはやめよう」とすぐに低い声で否定する。ここには、二人のフィガロがいる−−嫉妬に狂ったフィガロと、あくまでもスザンナの愛を信じるフィガロと。怒りのフィガロは動きのある高音のメロディを歌い、迷うフィガロはパッソ・オスティナートで自信なく低く歌う。それで、演出家ジャン=ピエール・ボネルは『フィガロの結婚』の映画化で、前景と後景に一人ずつヘルマン・プライのフィガロを配して、モーツァルトの一つのアリアから現実に二人のフィガロを生み出してみせる。まさに、モーツァルトの音楽が私たちに与える「眼の恐怖」だ。
言葉ではなく音楽を
モーツァルトに対するには、ワーグナーがふさわしい。劇を音楽で語る「示導動機」を縦横に駆使した彼の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』も、音楽の視覚化の宝庫だ。ハ長調の壮大な前奏曲が終わって幕が開くと、そこは聖カタリーナ教会の内陣。すでにミサは始まっていて、信徒たちが大声で「貴い洗礼者よ、キリストの先達よ」とヨハネを讃えて歌っている。奇妙なことに、彼らが息継ぎをするそのわずかな間に、賛美歌とはまったく違う甘美な音楽が聖堂にしのびこみ、長い賛美歌を何度も切断する。この甘いメロディは、主人公の騎士ヴァルターの「愛の示導動機」だ。オルガンを伴奏とする素朴な賛美歌と、弦楽器と木管楽器の色彩的な室内楽との間に明らかに非連続が生じる。
[譜2]
音楽のこの非連続性はなにを意味するのか?教会の柱の陰に隠されたヴァルターは、お祈りを捧げているエヴァに密かに合図を送る。彼が歌の合間をぬって手を振る度に、示導動機はその滑稽な姿とひたむきな愛を戯画化する。身動きもせずに敬虔に賛美歌を歌う人たちと、恋人の姿とその眼差しを求めてひっきりなしに身を乗り出す二人に、「静と動」「衆と寡(か)」「聖なる讃美歌と俗なる愛の調べ」「合唱と管弦アンサンブル」「舞台上での情景描写と人物の心理描写音楽」の対比が鮮やかだ。このドラマトゥルギー上の対比が、これまでタブーとされてきた音楽の非連続性を生むのだが、舞台上の劇の展開を見守る観衆の目と耳に違和感はない。劇とは、突然襲ってくる事件の総和に過きず、本来、音楽とは異なり、非連続なものだからだ。そういえば、この楽劇の前奏曲もそれを予言して、様々な動機を複雑に絡み合わせて非連続な事件の総和を作っている。音楽の形式や様式を無視した短いモティーフの頻繁な挿入は、ワーグナー以降、劇からもっとも遠い交響曲にさえ、ソナタ形式を捨てさせることになる。すなわち、音楽を徹底してテアター化した、示導動機の勝利で
ある。
第3幕の「ベックメッサーのパントマイム」も、「演技による楽譜の形象化」を可能にした有名な例だ。前夜、散々に打ちのめされたニュルンベルクの書記官は、ハンス・ザックスの留守をいいことに彼の仕事場に入り込む。部屋には誰もいない。ここで、オペラにありがちな不自然なモノロ一グを彼に歌わせないのがワーグナーの手柄だ。むろん、彼には示導動機がある。オーケストラが、「昨夜の騒ぎの張本人であったハンスの机を見て急に痛みを感じる」
「誰かがまた追いかけてこないかと辺りを見渡す」「窓の外にポーグナーの家を見てエヴァとヴァルターを探す」「ヴァルターが試験に落ちたことを思い出してほくそ笑む」といったベックメッサーの意識の動きと身振りの意味を、尻とり遊びのように克明に描き出すことが出来るのも示導動機の優れた機能による。
嘘をつく蛇
そして、オペラ演出のもう一つの基本は、「隠されたオペラの理念を顕在化すること」にある。オペラほど、嘘をつくのに適した芸術は他にない。真の理念を密かに隠したままで、台本のト書きも音楽も嘘をいう。なぜ嘘をいうかといえぼ、真実をより鮮明に述べるためだ。嘘つきオペラの代表は、言うまでもなくモーツァルトの『魔笛』だ。シャッファー兄弟が、初演時(1791)の『魔笛』の舞台を描いたとされる銅版画(1795)をご覧いただきたい。[図1]
[図1]モーツァルト「魔笛」第一幕の三人の侍女
舞台の中央には夜の女王の3人の侍女に斬られた蛇が3つになって横たわっている。台本のト書きに「彼女たちは蛇を3つに斬る」と書かれているからだが、これは『魔笛』の理念を隠すための台本の嘘だ。3人で一つの物を斬れば、3つではなく4つになる。しかし、フリーメイソンの仲間にとっては、「3回づつ鳴るファンファーレ」[3人の童子]「3つの試練」「変記号3つの変ホ長調の序曲」と同じく、ここは絶対に「3」でなければならない。「3」は彼らのモットーである「自然・叡智・理性」の象徴だからだ。だが、フリーメイソンの儀式が舞台上で進行していることを、大声で拍手喝采Lている大衆に分からせてはいけない。この「隠しながら顕わす」数字の矛盾に気づき、心の中で沈黙の喝采を叫んでいる同志にだけ伝わればいい。モーツァルトが、バーデン・バーデンにいるコンスタンツェヘの手紙に「一番嬉しいのは静かな喝采だった」と書いたのはそのためだ。
衣装哲学と色彩の美学
『魔笛』といえば、話題のポップ・アート画家デイヴィッド・ホックニーが装置と衣装を担当したメトの『魔笛』を忘れるわけにはいかない。第1幕の幕切れを思い出していただきたい。
逃げ出そうとしたタミーノとパミーナの前にザラストロが現れる。都合よく全員揃ったところで、彼らの衣装を眺めてみれぱ、ザラストロは全身金色に輝くガウンをまとい、一般の市民は青い上着だ。モノスタートスをはじめ奴隷たちは赤が基調で、タミーノは赤い服に緑のマントを着ている。パミーナは白で、パバゲーノは全身緑だ。金色は最高の理想を、青は理性を、白は純潔を、赤は情欲と情熱を、緑は未熟であることを、各々、現しているのだ。僧侶たちの青い服の長い衿だけが金色になっていて、彼らが中産階級であることがわかる。
3つの試練に見事耐えたタミーノとパミーナは、ザラストロたちに迎えられて彼らの仲間となる。『魔笛』のフィナーレだ。しかし、ここでは、フィナーレには登場人物全員が舞台に揃うといったアンサンブル・オペラの約束ごとは破られ、パバゲーノとパバゲーナは決して姿を現さない。ルソー的な自然人である彼らは、緑の服で満足しているからだ。ホックニーの衣装哲学は、『魔笛』に隠された啓蒙思想の厳しい階級意識を次々に暴いてみせる。だが、彼のこの色彩の美学は、アリアの青いマントは真実を現し、赤い上着は愛を現すという、ルネサンスの宗教画に顕著な図像学の伝統に支えられているのは見やすい原理である。[図2][図3]
岐路に立つヴィオレッタ
フランコ・ゼフィレッリが監督したヴェルディの歌劇『椿姫』の映画でも、「金と青」の対比は重要な意味をもつ。トミ・モンデーヌ(高級娼婦)のヴィオレッタ・ヴァレリーは、貧乏学生アルフレードの純真さに心動かされて「ああ、そはかの人か」を歌う。ゼフィレッリはこのアリアのために3つの部屋を用意する。青と灰色と金の部屋だ。「この偽りの世界を捨てて彼と生きよう」と決意するのは、理想を映す青いブードゥワールでだ。「でも、またあの貧乏暮らしに戻るのかしら…」とヴィオレッタが迷うと、そこに青でも金でもない無彩色の灰色の空間が広がる。そして彼女は意を決して、黄金に輝く虚栄の宴会室へと走り込む−「やはり、楽しく生きるのよ!」。青は純真な愛を現し、金は快楽を現す。苦しみ悩むヴィオレッタの心に、アルフレードの歌が甦るとき、そこは、金の輝きに青の影が増した私たちにおなじみのザラストロの世界へと変わる。だが、ここでの金はイエスを金(かね)で売ったユダの服の色だ。ヴェルディの歌劇の原題《ラ・トラヴィアータ》は、「道を踏み外した女」を意味する。ゼフィレッリもまた、この歌劇の理念を色彩で語って過(あやま)たない。
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