大正期
愛知美術の近代化「20世紀愛知の美術」展
 
 明治時代の日本の美術は、政治・経済・社会と同様に西洋文明の受容によって始まり、次々と生まれる新しい波と守旧派との確執を経ながら近代化が進められた。フェノロサの理念をうけた「日本画」では、特に明治30年代日本美術院を中心とする新勢力が伝統絵画の革新を進め、洋画では外光派をもたらした黒田清輝らが29年にそれまでの明治美術会を脱して白馬会をつくり、力を強めていった。明治40年に各派をまとめた官展として文部省美術展覧会(文展)が始まったが、大正以降も洋画のフュウザン会(大正元年)や二科会(同3年)・草土社(同4年)、日本画の再興美術院(同3年)・国画創作協会(同7年)などが生まれこれに対抗した。

 さて、政治や産業の上で東京と同様に発展をとげた愛知県では、明治44年全国で初めて民間による総合美術団体「東海美術協会」が設立され、それまで寺や神社で行われた小さな画会にかわる大展覧会場で展覧会を開催し、一つの画壇を形成した。しかしながら、この画壇には中央のような近代化の過程が欠けていた。日本画は江戸時代以来の伝統を守り、明治30年代から広まった洋画もわずかの作家を除いて中央の動きを見据えていなかった。会長を県知事、副会長を商工会議所会頭がつとめた東海美術協会は官展地方版のような権威を持ったが、他方ここでの作家たちが文展などで通用しないことも明らかになり、大正期の愛知美術は東京・京都と接触しながらの近代化が急務となったのである。

 大正7年、愛知県出身で東京在住の官展系作家たち − 洋画の加藤静児と太田三郎、日本画の川崎小虎と富田范渓、彫刻の朝蔭其明が「愛知社」を結成、翌年から名古屋で自分たちの作品展を開いて、当時の官展の水準を示した。

 日本画では地理的な近さもあって京都に学ぶ者が増えたが、大正7年、京都市立絵画専門学校第1期卒業の村上華岳や土田麦僊らが国画創作協会を創立して清新な日本画を展開した頃、同校の卒業生や在校生であった石川英鳳・織田杏逸・和田青雨・佐藤空鳴らが「愛土社」を結成して11年から名古屋で展覧会を行い、新しい気風を伝えた。

 愛知県側の動きとしては、これらに先立つ大正6年、岸田劉生を中心とする草土社の名古屋展に刺激された大沢鉦一郎や宮脇晴らによる「愛美社」の結成が早い。大正はじめに東京で松岡寿にデッサンを学んだ大沢は雑誌『白樺』などでゴッホやロダン、ミケランジェロなどの芸術を指針とし、物象の内面を追求する細密描写を始めており、草土社に近いものがあった。彼らは文展を改めた帝展に出品したこともあったが、院展洋画部や春陽会など在野系で活躍した。大正10年には、東京に出ていた横井礼以や鬼頭甕二郎のほか、愛知からも二科展入選者が出た。12年に尾沢辰夫や西村千太郎など若い作家10人が帝展の鶴田吾郎を顧問に「アザミ会」を結成したが、彼らはのち帰郷した横井礼以に就いて二科会で活躍するようになった。

 大正末から昭和にかけて特に大きな働きをしたのが、大正12年に松下春雄や鬼頭鍋三郎など4人が結成した「サンサシオン」であった。彼らは当初から、地元の東海美術協会に対抗し全国レベルのグループとなることをめざし、作品展のほか、画塾ではない自由研究所を設けたり、若い作家が参加できる公募展や帝展の外郭団体光風会との合同展を催すなど多くの話題と刺激を与え、また帝展の動向に合わせた研鑚により度々入選を重ね、10年間の活動の末期には特選を得るなど、愛知洋画界の意識を高めた。昭和初期には、洋画・日本画ともに急速に裾野が広がった。

 尾沢辰夫と松下春雄は夭逝したが、ここにあげた作家たちが昭和から戦後の愛知県美術界を支えることになったのである。

(深山孝彰)
 

同時開催
〈第2期所蔵品展〉「現代美術の諸相」
1993年1月5日(火)〜3月28日(日)