人生は戦いなり(黄金の騎士)
芸術の自由を求めて−グスタフ・クリムト
グスタフ・クリムト作《人生は戦いなり(黄金の騎士)》(1903)は、トヨタ自動車株式会社からのご寄附によって購入されたもので、その豪奢な装飾美がわれわれの眼をとらえて離さない愛知県美術館の所蔵品展示の核を形成する作品のひとつです。この作品には、クリムトの切り開いた優れた造形的特質がうかがえるだけではなく、現代に通ずる芸術家を巡る様々な問題を考える手がかりが含まれています。「20世紀の優れた国内外の作品及び20世紀の美術動向を理解する上で役立つ作品」をコレクションづくりの大きな柱のひとつに据える当館にとって、コレクションの劈頭を飾るこの作品がどのような意味をはらんでいるのかをここで考えてみましょう。
1862年生まれのクリムトが生まれ育った19世紀は、合理的理性に対する信仰と信頼が最も高まった時代でした。実証主義哲学と進化論が信奉され、自然科学上の発見、科学技術上の発明が矢継ぎ早になされました。産業革命を経た欧米は経済的に発展し、新たに支配階級となった市民階級は富を蓄えて満ち足りた生活を送り、物質生活に満足してこの世の喜びにひたったのです。一方で、科学的態度や資本主義、あるいは工業化や都市化に内在する矛盾も露わになり、時代への厳しい批判も噴出しました。
とりわけ文化の領域に根本的な批判のメスを入れたのはドイツの哲学者ニーチェでした。彼は「反時代的考察」(1873-76)の中で、市民階級が社会を支配していくことに伴う精神的危機、文化の没落の危険を説きました。彼らは家庭や仕事といった領域についてはキリスト教倫理に従って人生の厳粛事ととらえ、文化を冗談にしか受け取らなかったのです。例えば、彼らが絵画で尊重したのは、古典的な大家の作品の亜流的な模倣か、現代の事象を肖像画的に忠実にかたどったもののみでした。「後者は彼自身を礼賛し、〈現実的なもの〉に対する逸楽を増すことになり、前者は彼の害にならぬどころか、古典的好尚の審判者としての名声を加えるもの」であったためです。権威づけられた伝統に依存しそれを皮相な形で継承しているだけにもかかわらず、成り上がりの彼らは真正な文化を有していると信じており、独自の文化を生み出そうという探求には手を貸そうとはしませんでした。ニーチェはそうした彼らのことを〈文化俗物〉と呼んだのです。
クリムトが活躍したウィーンでも状況は似たものでした。彼を中心とする若い作家たちはウィーンの旧弊で閉鎖的な芸術界の刷新を目指して立ち上がり、1897年ウィーン分離派が結成されました。分離派展示館には「時代にその芸術を/芸術にその自由を」のモットーが掲げられ、分離派展では自分たちの作品を発表するだけでなく、まどろむ芸術家や大衆に刺激を与えるため、ヨーロッパ各地で起こった新しい芸術運動が積極的に紹介されました。当のクリムト自身もそこから多くの制作上の示唆を受けたことが知られています。
クリムトの画業を振り返る場合、また、《人生は戦いなり》という画題との関連においても、ウィーン大学大講堂の天井画をめぐるスキャンダルに触れないわけにはいきません。ウィーンのオーストリア工芸・産業美術館付属の工芸美術学校で学んだクリムトは建築内部の装飾画の技量を身につけ、その分野で名声を高めていきました。その画風は、冷徹なまでに緻密で的確な写実力、合理的な空間構成、綿密な歴史考証に裏付けられた細部表現、香気の高い古典的趣味を備えたもので、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(へーゲル)という言葉がまことしやかに信じられ、貴族文化への慣れを共有していた市民階級の趣味を見事に体現するものだったといえるでしょう。
そうした中の1894年、ウィーン大学大講堂の装飾画の委嘱を教育省から僚友フランツ・マッチュとともに受けることになったのですが、クリムトの中で芸術に対する考え方や世界観が少しずつ変化し始めたようです。クリムトは哲学・医学・法学の理念を絵画化する天井画を担当し、1900年より作品を公にします。けれども、空前のスキャンダルを引き起こすことになりました。「闇に対する光の勝利」を主調音にする健全な啓蒙主義的な学問観に反して、合理的精神のみでは捉えきれない、人間の根底に潜む悦楽と分かちがたく結びついた根源的な苦悩や悪の領域が暴き出されていたり、あらゆる理想化を取り払って人間の裸体が提示されたことがわいせつであるとされたからです。市民階級の文化を代表していたクリムトは、それに対して公然と反旗を翻し、精神分析学者フロイト、作曲家マーラーらも加わった、政治や社会運動のみならずウィーンの幅広い領域で巻き起こりつつあった保守的な陣営に対する闘争に加わることになったのです。
世間の無理解と批判の嵐にさらされたクリムトは、世俗の名利と芸術の自由の選択を余儀なくされました。当初は挑発的な作品を発表するなどあくまで争う姿勢を見せていましたが、結局制作費を返上して制作委託を撤回するという不幸な形で1905年に一連の論争の幕が降ろされます。挫折を味わったクリムトは、それ以後公の仕事から身を引いて理解ある限られた人たちのためだけに自由に制作するようになったのです。
《黄金の騎士》は、上に述べたスキャンダルの渦中に発表されたものです。芸術の自由と芸術による救済の実現のためにクリムトの想い描いた理想郷をひとり超然と突き進む騎士の姿からは、題名とは裏腹に、邪悪と苦悩に満ちたこの世の事柄はもはや眼中から消えているようにみえます。現実社会への不信感や疎外感からでしょうか、この作品の絵画空間はもはや自然科学的に計測可能なものではなく象徴的なものへと変容し、装飾的・平面的に描かれています。つまりここでは、質的にまったく新しい現実とユートピアを描きだす試みがなされているのだといえるのです。
その後の20世紀美術の多様な展開は、こうした新しい現実、もうひとつの現実の追求を巡ってなされたといってもよいかも知れません。自律した美的絵画空間形成への意欲の明らかなこの作品の所蔵品展示での意義は、こうした意味でも少なくないのです。
(H.Ma)
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