“人間性への信頼と賛美”

オペラ「影のない女」の時代を越えるメッセージ

 リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)がフーゴー・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)の台本に作曲した「影のない女」はオペラの二面性を併せ持つ、つまり、見るだけでも、あるいは聴くだけでも充分に楽しめる作品です。しかし、このオペラを物語として読み直してみると、初演から1世紀近い年月を越えたひとつのメッセージ−“人間性への信頼と賛美”が伝わってきます。

 このオペラの初演日「1919年10月10日」と初演場所「ウィーン国立歌劇場」とは歴史的に深い意味を持ち、作品を考える上での重要な時代背景です。「ウィーン国立歌劇場」はかつて「ウィーン宮廷歌劇場」と呼ばれ、第一次大戦によって崩壊するまでヨーロッパの盟主であったハプスブルグ家の文化活動の中心地のひとつでした。当時、ヨーロッパの人々は戦争という大量無差別殺人による人間性の否定と崩壊の危機に直面したといえるでしょう。戦後、新名称によるこの歌劇場の活動は1918年に開始され、翌年8月、作曲者R.シュトラウスが監督に就任、「影のない女」の世界初演を行いました。この上演がウィーン国立歌劇場にとって実質的に最初の大公演であったことは、出演した当時最高の歌手たちの名からもあきらかです。ひとつの社会の終焉と人間存在の危機とを生きた作曲家と台本作者−彼らの共同制作の果実が新しい社会の出発を祝うよう人々に捧げられたのです。

「影のない女」を見る

 時代は「昔」、「とある東洋の島国」で物語は進みます。霊界と人間界というふたつの世界が時に対峙し、時に交錯し、変幻自在に場面が変わり、突然あっと驚くような仕方で登場人物が出現し、そして消え去ります。霊界の魔法使い的な人物が食べ物や武器を空中から出現させたり、人間の女性に夢を見させて誘惑したり……観客の目を楽しませるトリックが展開されます。その非合理的=非近代西洋的な展開の中に、歌舞伎との同質性を見ることもできるでしょう。「影のない女」が世界一流の歌劇場においてもレパートリーになりにくい(頻繁に上演されにくい)のは、この物語のそうした性格が欧米人の製作者たちにとって難題となっているからなのでしょうか。このオペラと歌舞伎界のスーパースター市川猿之助との出会いがどのような実を結ぶかが楽しみです。

「影のない女」を聴く

 このオペラを作曲した時、R.シュトラウスのパレットにはあらゆる組み合わせが可能な音の画材が揃い、それを駆使する技法のマニュアルはほぼ完璧に用意されていました。バロック時代に始まるオペラの歴史のひとつの到達点に立っていたのがシュトラウスであり、モーツァルト、ワーグナーそしてマーラーの音楽遺産を受け継ぐことができる才能の持ち主だったのです。

 このオペラのためのオーケストラは大歌劇場のオーケストラ・ピットさえ埋め尽くす程の大編成で、一斉にフォルテで演奏されたらどんな歌手でも客席に声を届かせるのは難しいと思われる程ですが、優れたオペラ指揮者でもあったシュトラウスは、この作品において総強奏と抑制された室内楽的手法を巧みに使い分け、決して歌唱を包み隠してしまうことのないバランスの取れたオーケストレーションを行っています。入念に描かれた大気の揺らぎ、鷹の飛来、水の流れ、霊界から人間界への降下などを聴くことができるのです。

「影のない女」のメッセージ

 このオペラには霊界と人間界というふたつの世界から、それぞれ一組の男女が登場します。彼らは肉体的には結ばれてはいても心の結びつきは不完全で、互いに信頼を保てず、ついには危機的状況を迎えてしまいます。しかし、愛の力は人間のエゴイスムを捨てさせ、愛の試練を乗り越えた彼らは完全な夫婦となるのです。「影のない女」の「影」とは真の愛情を象徴的に表現しているのではないでしょうか。

 この物語は、真実の愛を具現化しうる器としての人間存在を描いていますが、そこには“否定されてはならない人間性”というテーマが流れているように思えてなりません。このオペラが作られた20世紀の初頭と現代は人間性の喪失の危機を共有しているのではないでしょうか。

(J.N) 

あらすじ

 「影のない女」の物語は、グリム童話の「白雪姫」などと同じ土壌から生まれたメルヘンの世界です。時代は「昔」、「東洋のとある島」で物語は進みます。登場人物は霊界の王カイコバードの娘である皇后と皇帝、人間界の染物師バラクとその妻、そしてカイコバードが皇后を見張るために送った乳母たちです。

 霊界の王カイコバードの娘は、白いカモシカとなって遊んでいるところを皇帝に捕らえられます。その瞬間、カモシカは美しい女の姿に変身し、皇帝と結婚しました。しかし、彼女には影がありません。掟によって、影がないままに12か月が過ぎると愛する皇帝は石になってしまいます。「影」とは人間性の象徴で、影がなければ子供を産むことができないのです。このオペラは約束の期限の3日前から始まります。

 皇后は皇帝を助けるために何とか影を得ようと乳母に頼みます。乳母は染物師バラクの妻が結婚生活に満足できず子供を生もうとしないのを見つけ、バラクの妻に色々と誘惑をしかけて影を奪う寸前までこぎつけます。しかし、言い争っていたバラク夫妻も最後は互いに愛し合っていることを悟るのです。そんなバラク夫妻の姿に、皇后も影を奪うことができません。いよいよ最後の1日、皇帝は目だけを残して体が石になりつつあります。影を得るためであっても、バラク夫婦の愛を犠牲にすることができない皇后のやさしさに霊界の王カイコバートも心を動かされ、ついに掟をくつがえすのでした。

 

愛知でのワールド・プレミエを前に

「影のない女」稽古レポート 

真鍋圭子:音楽ジャーナリスト

 11月8日の日本初のオペラ・ハウスの柿落しに向けて、バイエルン国立歌劇場での本格的な稽古が、劇場の休暇明けと同時に始まった。9月15日、演出家で歌舞伎界のスーパースター市川猿之助が、用意万端整えて、歌舞伎俳優の坂東弥十朗と市川右近、さらに振り付け役として藤間勘紫乃と微野というそうそうたる助手を従えて稽古場へと向かった。猿之助とバイエルン側との3年間もの長い準備期間の集大成が、いよいよこれから始まるのだ。

 1988年、総監督のヴォルフガング・サヴァリッシュの率いるバイエルン国立歌劇場のセンセーショナルな日本公演の後、日本の音楽ファンの切なる要望に応えて、サヴァリッシュは自分の任期の終了する1992年に、3度目の日本公演を計画してみようと決心した。その間に、偶然にも愛知県から、オペラ・ハウスの柿落しへの招待がきたのである。日本公演のプログラムはやはりこの劇場の3本の柱と言われる、モーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスの中から1曲ずつ選ぶことにした。モーツァルトはサヴァリッシュが尊敬してやまない故ギュンター・レンネルトの演出の古典作品とも言える「フィガロの結婚」、ワーグナーは「さまよえるオランダ人」ということですぐに決定できた。ミュンヒェン生まれの作曲家R.シュトラウスの作品の中で、同じくミュンヒェン生まれのサヴァリッシュが一番愛着を持ち、是非とも日本で上演したい作品は、何といっても「影のない女」である。ところが、この舞台装置はすでに17、8年も使用していた代物なので、もうすでに'88年の夏に解体破棄してしまっていた。サヴァリッシュはシュトラウスを今世紀最大のオペラ作曲家であると確信していて、彼のオペラ作品を広めることを自分の使命と感じているようである。1988年の夏のミュンヒェンのオペラ・フェスティヴァルでは、シュトラウスの舞台作品全15作を一挙に上演して、全世界の注目を集めた程である。また、いつの日か日本に歌劇場が完成した時に、すぐにでもシュトラウスのオペラが上演されるような土壌を作っておかなければならないと主張し、1984年には「日本リヒャルト・シュトラウス協会」を組織して、以来毎年、この協会で演奏と講演会を行っている。彼にとってシュトラウスの音楽は特別な意味を持っているようで、彼の自伝「音楽と我が人生」でも、シュトラウスの章には多くのページをさいている。

 そしてその中でも、彼が特に熱弁をふるっているのがこの「影のない女」についてなのである。「「影のない女」はシュトラウスのオペラの中で最も人間的なものといえましょう。これ程人間臭さを集約して表現した作品は、彼の他のどの作品にも見当りません。また人間どうしの関係にこれほど重きを置いて、それを中心に持ってきた作品も他にありません。(p.380)」サヴァリッシュはそれ以後も、事あるごとにこの作品の中心を流れるヒューマニズム、夫婦の愛、そして未来への希望、子孫の繁栄などについて語っている。

 この彼の思い入れの深い作品を日本に持って行くには、その前にミュンヒェンで新しい演出をしなければならない。本来ならばもう自分の任期中に、新しい演出を手懸ける計画はなかったサヴァリッシュだが、この作品のためならばすでに決定済みのローテーションを大幅に変更して、やってみようということになった。問題は演出家である。この作品はオペラの中では珍しく、モーツァルトの「魔笛」と同じメルヒェンである。つまり、ある特定の時代と場所の設定がされていない。おおまかな場所の設定として、“東方の島”というだけなので、それがインドネシアであっても日本であっても良いはずである。そこで、彼の10年来の夢であった、日本の伝統芸術に精通した演出家に頼めないだろうかということになり、すでにパリでオペラの演出を経験している市川猿之助の名前が浮上してきたのである。1989年7月のことだった。

 猿之助は、慎重にこのオペラの内容を検討した結果、依頼を引き受けることにした。それ以後、ミュンヒェンと日本を往復して、何回となく、真剣でインテンシヴな話し合い、打ち合せが行われた。中でもサヴァリッシュの田舎の家で行なわれた、3日間にわたる猿之助とのコンセプトの打ち合せは、プロフェッショナルどうしのスリリングな程テンポの速い、緊張感溢れる、すこぶる内容の濃いものだった。猿之助のいつものスタッフ、舞台装置に朝倉摂、衣装に毛利臣男、照明に吉井澄雄という、いずれも日本を代表する人たちとの共同の仕事である。舞台装置の図や、衣装のデッサンを見て、サヴァリッシュ始めバイエルン・オペラの全員が、期待に胸を膨らませて用意を重ねてきたのである。

 本来の計画では、ミュンヒェンの舞台で10月24日にプレミエを迎え、さらに2回の公演をすませてから日本に行き、11月8日の愛知の柿落しを行うはずであった。ところが昨年の10月、バイエルンの舞台の機構がどうしても今のままでは故障が多すぎて、猿之助のコンセプトによる「影のない女」の複雑な舞台は上演不可能ということになった。今後のためにも、劇場を閉めて早急に舞台機構を修理する必要があるという。幸いにも、愛知芸術文化センターは本格的なオペラ・ハウスで、ミュンヒェンの舞台機構よりもすぐれているので、ミュンヒェンでのプレミエの代わりに、愛知でできないものだろうかということになった。バイエルン国立歌劇場400年の歴史の中で、プレミエがよそで行われるのは、まったく初めてのことである。

 文化センター側から承諾を貰い、結局、ミュンヒェンで十分に下稽古を重ねた上で、本物の舞台装置を使っての本格的練習は10月20日以降愛知でということに決定。つまり、日本初のオペラ・ハウスの舞台で、日本を代表する芸術家猿之助の演出により、バイエルン国立歌劇場の一行が、彼らの地元の作曲家の作品をサヴァリッシュの指揮でこの劇場の柿落しのためにじっくり練習するということになったのである。オペラの一つのプロダクションが出来上がるまでの工程を、実際に身近に体験できることになったのは、偶然とは言え、愛知にとってはあまりにもラッキーなことだと言えないだろうか。

 猿之助と歌手達の練習は、言葉の違いなど感じさせない程スムーズに着々と進行していっている。歌手を始め、エキストラ、そしてあらゆる劇場関係のプロ達は、1回の稽古から、猿之助及びそのアシスタントの人達の芸術家としての高い質を感じ取り、彼らから日本の舞台芸術の手法を少しでも学び取ろうと、真剣に稽古をしている。その姿は感動的でさえある。洋の東西をとわず、本物の芸術には国境がなく、芸術家どうしはその質を一瞬の内に見抜けるものなのである。“マイスター・エンノスケ”は、即座にバイエルン国立歌劇場の人達の尊敬を集め、その演出は練習毎に冴えをみせている。猿之助はこの演出のために、8、9、10月の歌舞伎の公演を休むという力の入れ方である。その勢いはいやが上にも、人びとの心に伝わるものである。

 大道具はすでに完成し、8月15日に船積みされて一路名古屋へと向かっている。ため息のでるような豪華な衣装も85パーセントは完成していて、10月15日は最終衣装合わせである。メイクも、白の色が違うということで、バイエルンのメイクの人達が率先して、水白粉の使い方と歌舞伎独特の隈取りの練習をしている。今バイエルンは、劇場をあげて、このプレミエに向けておおいにフィーバーしている。劇場のヴェテラン達が、口を揃えてこのプロダクションの歴史的大成功を予言しているのがうれしい。サヴァリッシュが彼の著書の中で、「演出家が、この作品が本当に意味していることを表現するのに成功したならば、“今日か明日には”この「影のない女」は人気の面でも、他の作品に追い付き追いこすと考えられます。」(p.381)と書いているが、猿之助という偉大な演出家を得て、この作品は必ずや日本の聴衆にも、その後は世界の聴衆にもポピュラーなものとなるだろう。

 それにしても、今回の日本公演の企画そのものが、まるで何か大きな目に見えない力に導かれて、日本初のオペラ・ハウスの柿落しのためのプレミエに引きずり込まれたかの感がある。予期しがたい程、あまりにも多くの偶然が重なって、このワールドプレミエをこのオペラ・ハウスで迎えることになったという幸運を、心から祝福せずにはいられない。

 

撮影 三浦興一