七里圭監督
『ホッテントットエプロン―スケッチ―』をめぐって

〜「第10回アートフィルム・フェスティバル」より〜


七里圭監督の『ホッテントットエプロン−スケッチ−』は、愛知県文化情報センターが 毎年制作している「愛知芸術文化センター・オリジナル映像作品」の最新作として、 「第10回アートフィルム・フェスティバル」で上映された。 「オリジナル映像作品」は、一貫して〈身体〉というテーマが設定されている。 情報化が進行する現代社会において、今日的主題といえるが、その解釈は作家に委ねられ、 自由である。この企画のより重要な点は、それによって、商業映画ではなかなか許されない 先鋭的な映像を招来してきたことだ。観客を癒やしたり喜ばせたりする必要のない、 しかし見る価値は十分にある映像作りに挑戦する機会を作家に与えることが眼目なのであり、 作家は毎回、その期待に応えている。 またその成果である作品は、国際映画祭での受賞など、実績を重ねてきた。

『ホッテントットエプロン−スケッチ−』は、裸にならなければ見えないところに痣が あるらしい若い女の幻想めいた世界を描いた1時間あまりの無声映像だ。 〈あるらしい〉というのは、女の肌にあるはずの痣は最後まで見えないからだ。 〈幻想めいた〉というのは、断片的に挿入される女の現実生活の映像が淡くおぼろげ なのとは対照的に、大半を占める幻想の映像が存分に光を受けて鮮やかであり、 そのために、もしかすると幻想こそがこの女の現実の世界ではないかと考えさせられる からだ。心に重い傷を負った人間ならば追い込まれることもあるだろう世界が、 ずるりずるりと描かれていて生々しい。そんな作品なのである。

映像は乳牛の黒白斑紋の大写しで始まる。間もなく女の独白が肉声ではなく字幕で示される。 「昨日、彼が私のからだを見た」「隠せないアザに怯えてしまった」。作品に出てくる 言葉はこれだけだ。夢の世界に入り込んだ女は寒々とした「青」の部屋で呆然とたたずみ、 静かな森を歩いて水をくんで喉を潤し、引きずり出された血管がぶらさがったような 「赤」の部屋でマネキン人形とたわむれる。やがてマネキンの左下腹部に痣が現れ、 女は夢の中でも怯えなければならなくなる。

痣があるはずの左下腹部は最後まで一瞬たりとも晒されない。端正な体をした女の肌に 痣を見定めようとしてもシルクの衣装に隠された部分に黒々とした痣を幻視するしかなく、 残酷な期待は肩すかしを食らう。

音のない天国の森を少女が歩いた『アワーミュージック』(2004年、ジャン=リュック・ ゴダール)。腹に刺青をした風俗嬢が都市を漂う『トーキョー×エロチカ』 (2001年、瀬々敬久)。女が自分の皮膚を剥ぐ『イン・マイ・スキン』(2002年、 マリナ・ドゥ・ヴァン)。いくつかの映画の場面と、さまざまなイメージがとりとめなく 思い起こさせられた。鮮やかな色彩、浮遊感を醸し出す寂しげな音楽、夢の空間のセット、 ロケーション。独自の映像をめざした監督らスタッフの苦労が随所に感じられて楽しめた。

今回の「アートフィルム・フェスティバル」の前段で特集された吉田喜重監督の ドキュメンタリーフィルムの一本、映画の創始にかかわったガブリエル・ヴェールを 描いた『夢のシネマ 東京の夢』(1995年)は、観衆から受け入れを拒まれた処刑の映像で 映画の歴史が始まったことを教えてくれた。もちろん勝手な憶測になるが、 このオリジナル映像作品は、ある意味、そうした〈禁じられた映像〉への接近を追求して 作られたようにも思えて刺激的だった。

痣が顔を覆うまでに拡がったマネキンを慈しむように抱きしめるしかなかった女は マネキンとともに薄暮の河に沈んでいって、映像は終わる。痣を苦にして死んでいく、 あるいはすでに死んでしまったために言葉を発せない女の物語。かなり悩ましい映像だ。

佐藤 雄二(朝日新聞記者)



<作品データ>
 『ホッテントットエプロン―スケッチ―』
監督・撮影 :七里 圭
原案 :新柵未成
撮影 :高橋哲也
音楽 :侘美秀俊
出演 :阿久根裕子
  2005年 / ビデオ / 65min