吉原治良と「具体」:
 美術の枠を超え、表現は熱くほとばしる


 今から半世紀ほどさかのぼる1958年、ある日本の美術家集団が海外のアートシーンへ 踊り出た。ニューヨークのマーサ・ジャクソン画廊を皮切りに欧米で次々と展覧会を行い、 そのつど注目を集め、高い評価を得た。日本の美術界においてほとんど前例がない、 この偉業を成し遂げた集団の名は<具体美術協会>、通称「具体」である。
 このグループの結成は1954年。当時前衛画家としての地位を確立し、関西を中心に 芸術・文化全般に多大な影響力を持っていた吉原治良のもとに、彼に教えを請おうと 若い美術家たちが集まってきたことに始まる。吉原は会員たちに「人の真似をするな、 今までにないものをつくれ」と繰り返した。その言葉が若い作家たちにとっての、 絶対的な師である吉原に作品を認められるための唯一の指標となった。 「具体」メンバーの一人元永定正は「誰も認めてくれないような変な絵をいつも 一番先に取り上げてくれたのが吉原先生だった。」「新しい作品を見分ける嗅覚は 獣のように鋭かった。」と回想している。
 吉原の発案による最初の「具体」グループ展は、奇想天外なものであった。 「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」と題されたこの展覧会は、 芦屋公園の松林を使った野外展で、会員たちは、松林の環境と一体化した作品や 激しい行為による作品など、絵画や彫刻といった既成のジャンルには分類できない作品を 多数出品した。白髪一雄は斧によって切り口を入れた赤い丸太を円錐に組んだ作品、 元永定正はポリエチレンに着色した水を入れた作品、金山明は足跡がプリントされた 白いビニールの帯が会場を縦横に走る作品を展示した。
 彼らの活動はこの展覧会にとどまることなく、次々と斬新な作品を発表した。 1955年から1972年まで21回にわたる「具体美術展」を開催したが、特に第1回具体美術展に おいての、泥と格闘する白髪一雄の作品や紙を貼った衝立を突き抜けた村上三郎の「紙破り」 は有名である。このように、多様な素材を表現に効果的に取り込む、激しい身体行為による パフォーマンス的な作品は、「具体」美術に特に際立つものであった。
 吉原はその傾向をさらに拡大させた企画を打ち出す。それは舞台を使い作品を 発表するというもので、1957年、大阪の産経会館で「舞台を使用する具体美術」として 実現された。田中敦子の色とりどりの電球を使った《舞台服》のように、光によって 空間を演出する手法が取り入れられた。また作品にはメンバーたちがテープレコーダに 吹き込んだ音による「具体音楽」が加わった。展示室という閉ざされた空間に収まり きらないエネルギッシュな「具体」の活動は、翌年の「舞台を使用する具体美術 第2回発表会」や、アドバルーンで作品を空高く吊るした「インターナショナル・スカイ・ フェスティバル」(1960年)へと続いた。
 多様な素材を用い、激しいアクションを伴う表現方法は、絵画にも取り入れられ、 絵具の物質感とその上に刻まれた作家の身振りの痕跡に特徴づけられる作品が多く制作された。 この傾向はフランスの美術評論家ミシェル・タピエが提唱したアンフォルメル絵画と 軌を一にした。1957年にタピエと交流を持った「具体」は、この運動の一翼を担うことになり、 欧米で展覧会を開くなど国際舞台へ進出したのである。
 ここに紹介したのは「具体」の初期活動の一部にすぎないが、様々な表現領域に またがる実験を行い、世界へと飛躍した活動に、その原動力となった若い作家たちの 熱くほとばしるエネルギーを感じずにはいられない。この「具体」こそ、グループの中心で 絶対的指導者として厳格に構えていた吉原がひとりの作家として生み出した、 当時最も先鋭的なプロジェクトであったといえるだろう。そして彼がこのプロジェクトに 注いだ情熱は誰よりも熱いものだった。
 「具体」の活動の一方で、吉原は戦前から戦後にかけて常に画家として制作を続けた。 その作品数は1000点にものぼる。「生誕100年 吉原治良展」では、画家吉原の知られざる 実像に迫る。
(M.M)



1 : 吉原治良《作品》1958年
 大阪市立近代美術館建設準備室(第6回具体美術展
 [マーサ・ジャクソン・ギャラリー、ニューヨーク]出品)
2 :金山明《足跡》1955年
3 :白髪一雄《どうぞお入りなさい》1955年
4 :田中敦子《舞台服》1957年
5 : 吉原治良《作品A》1955年
 大阪市立近代美術館建設準備室(第1回具体美術展出品)
6 :白髪一雄《泥に挑む》1955年
7 : 村上三郎《紙破り》1956年
 (写真は第2回具体美術展の公開制作のもの)
8 :吉原治良(中央)と「具体」のメンバー
9 :インターナショナル・スカイ・フェスティバル 1960年