(しろとり)


新実徳英作曲のシンフォニック・オペラ《白鳥》が、愛・地球博閉幕まで 1か月を切った9月初めに初演された(9月2日、愛知県芸術劇場)。 「シンフォニック・オペラ」として構想されたことは、今日のオペラ創作に大いに示唆を 投げかける。上演前の、作曲者と演出家の岩田達宗によるプレ・トークで 「たいていのオペラはメロドラマ、ストーリー展開に沿って進行していく。 一方、《白鳥》にはそういうストーリー展開はない」と新作オペラは紹介された。

20世紀には、オーケストラ作品やピアノ作品では新しい音楽語法が開拓されてきたが、 オペラとなると、プレ・トークで言われたように、物語が展開して後半部分に クライマックスがきて、そのまま劇的に終る、あるいは穏やかに終結する、というように、 19世紀までの伝統的なオペラ作法がほぼ受け継がれている。現代のオーケストラ作品は 15分から20分くらいが平均的な演奏時間なのに、オペラは台本によって持続時間が保証される ので、2時間以上の作品が可能になる。現代のオーケストラ作法と劇との間には、 ある種ちぐはぐさがある。現代のオーケストレーションと互角に渡り合う台本がない、 あるいは、オペラに対するイメージそのものが前時代のそれを引きずっているのが現状だろう。

新実といえばオーケストレーションに優れ、数々のオーケストラ作品を発表している ばかりでなく、新実の合唱作品も日本の合唱音楽の中枢的なレパートリーとなっている。 その新実がシフォニック・オペラという「交響的な、あるいは交響楽の延長としてのオペラ」 という新しいオペラのありようを打ち出しての新作なので、期待がかかる。

川口義晴の台本は、第1場:平家物語の壇ノ浦の戦いのあと、第2場:20世紀初頭の 酒場・娼楼、第3場:古代日本のとある祭事、というように、男と女が出会い別れる場面が、 一地点に特定することなく設定されている。第1場で、女(浜田理恵)は、自分の愛する男 (福井敬)が戦いで没したことを知らされ、第2場では、男は女を探し求めて酒場に来るが、 女は男からすり抜けるように、あるいはより高い合一に向けて「首をしめて」と迫り、 男は女の首を絞める。第3場では、老人や村人たちに囲まれて、男と女が純白の衣装をまとって 「わたしたちは流れる水」と旅立っていく。白鳥と純白の色は永遠の旅の象徴として扱われる。 男と女が主要登場人物である点は従来のオペラと変わりないが、男と女は、出会いから愛憎、 葛藤へ、といった従来のオペラにみられる展開に向かわず、探し求めつつ永遠に旅する関係と して描かれる。

歌のパートは、終始ゆっくりしたテンポで、シラビックに言葉が明瞭に発音されるよう 旋律化され、オーケストラ・パートは、歌い手と一緒に言葉に息を吹き込むように優しく 和声づけされる。弦楽器の小ぶりなグリッサンドが、白鳥の羽ばたきを象徴するように、 随所に聴かれる。新実のオーケストレーションの手腕は全開するというよりも、 むしろ抑制されていたが、登場人物の心理変化と一緒に呼吸するようなオーケストラの響きが 魅力的だった。劇的に高まってクライマックスを形成して、鎮静する、といったオペラの 定形から自由になって、台本にふさわしい音楽が探られている。独唱パートとオーケストラ (現田茂夫指揮の名古屋フィルハーモニー管弦楽団)は、相互に浸透し合うように濃やかに テクスチュアを形成し、声とオーケストラのシンフォニーさながらの響きを浮かび 上がらせたが、言葉を呪文のように繰り返す合唱(AC合唱団)の響きが幾分 硬かったのが惜しまれる。

女役の浜田、男役の福井は、言葉の一つ一つを彫琢するようにていねいに歌ったが、 それぞれの役を今ひとつつかみきれないでいた感もある。《白鳥》の男と女が、 これまでのオペラに登場する男、女のタイプ、およびその関係とは違っていて、 モデルになるものを見出しにくい、といった様子がうかがわれた。 新実はシンフォニック・オペラという概念を提起したが、作曲者ぞれぞれのオペラの イメージに向けて作曲することに誘発する作品である。
楢崎洋子(音楽評論家)

Photo : Kosaku Nakagawa