愛知芸術文化センタープロデュース
ダンスオペラ2「青ひげ城の扉」


現代にふさわしい舞台芸術の創造を目指して愛知芸術文化センターが推進するダンスオペラの 第二弾 『青ひげ城の扉』は、演出・振付のみならず美術・映像と多才ぶりを発揮する アレッシオ・シルヴェストリン、H・アール・カオスの代名詞ともいえる舞踊家の白河直子、 近年ジャンルを超えた活躍の目立つ能楽師の津村禮次郎という、最前線の国内アーティスト に、ハンガリーからバリトンのペーター・フリード、メゾ・ソプラノのアンドレア・ツァント、 それにドイツ出身の指揮者アレキサンダー・ドゥルチャーが加わるという豪華な顔ぶれで、 この一夜限りの贅を尽くした舞台をひと目見ようと全国から数多くのジャーナリスト、 批評家らが駆けつけた。

オリジナルの『青ひげ公の城』は、ベラ・バルトーク唯一のオペラとして1918年にブダペスト で初演された。2004年のダンスオペラ第一弾が、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』と ストラヴィンスキーの『悪魔の物語(兵士の物語)』という20世紀の代表的な作曲家の傑作で あったことからも分かるように、このシリーズでは20世紀以降の優れた音楽を取り上げながら、 ダンス、ヴィジュアル・アーツとの融合によって今日的なテーマを見出そうとする意図が窺える。 今回はシルヴェストリンの美的感覚に優れたトータルシアター的な構成の面白さと、 初演地のハンガリーから前述の音楽家を招聘したことにより、舞台全体の密度が高まり、 よりいっそうの質的向上が見られた。これは、ダンスオペラの目的に適ったもっとも成功した 例のひとつとして、多くの人の記憶にとどまるに違いない。

民話を下敷きにしたペローの童話『青ひげ』は、夫の留守中に禁じられた部屋をのぞいた 新妻が、元妻たちの死体を発見して自らも生命の危機にさらされる、という物語であるのに 対し、オペラに採用されたバラージュの戯曲では、家族の反対に背いて嫁入りしたユディット が、禁じられた秘密の扉を開けるよう夫を説得し、すべてを知って助けを求めることもなく 生きたまま幽閉された三人の妻同様の運命を辿る、という異なる展開を見せる。
ここに登場する七つの扉の内側にあるのは、青ひげ公の精神世界そのもので、 その深層心理を探るのはユディットのみならず観客にとっても興味深い。 一人の男の内面に隠されたさまざまな顔———それは欲望に身をゆだねる 人間そのものの姿であり、時代を超越した存在であるといえる。自らの心の内を隠し、 その領域から出ることなく妻を迎え入れ、盲目的な愛を求める男。それに対し、 愛するがゆえにすべてを知りたいと願う女は、献身と希望をもって夫の真実の姿を暴こうと する。両者の意識のずれは、極めて今日的と言えるだろう。男と女は互いを理解できるのか、 という永遠のテーマに対し、このオペラは疑問を投げかけている。 シルヴェストリンは、理想化された記憶の宿る身体の距離感を描くことで内在する心の闇を 浮き彫りにし、現実との隔たりを物語っていくことに焦点をあてた。

舞台は簡素ながらも扉や階段、変化に富んだ照明や映像の効果で象徴的に描写され、 重層的な構造を成立させている。吟遊詩人に代わり、城の魂魄役に扮した津村禮次郎は、 朗々とした語り口と抑制された静かな佇まいとのコントラストで観客の意識を一気に物語の 世界に引きつけた。青ひげ公とユディットは舞踊と歌それぞれ独立して連携はないが、 同時並行で演じられることによって、想像力がいっそうかき立てられるという仕組みである。 シルヴェストリンと白河直子は、深い精神性に裏打ちされた柔軟な動きで独立性を保ちながら も共鳴し、その確固たる身体性を示し、フリードとツァントは、照明と壁によって隔てられた 中で、ドラマチックに歌い濃密な空間を作り上げた。彼ら四人の織りなす世界は、 緊張感と官能的な響きに満ち溢れ、集中力は最後まで途切れることがなかった。 ここでは東西の優れた人材の交流のみならず、もっとも新しい技術を使いながら人間の声と 身体の持つ魅力と可能性を引き出すことに成功した。そうした意味で身体の復権という 現代に課せられたテーマが見事に結実した舞台であったといえるだろう。

池野 惠(舞踊評論家)

Photo : Tatsuo Nanbu