「浄土」—楽興の時


「浄土」は「ミュージック・シアター」と銘打たれているが、これはたんなる 「音楽劇」ではない。なにせ起点は三島由紀夫の短篇小説「志賀寺上人の恋」である。 それ自体逆説的というほかない三島作品の音楽化の試みを、しかもどんなふうに舞台に かけようというのか。

舞台を仕切る宮城聡は、存在感のある女優・江口麻琴を起用して、彼女の唇から異様な 声が洩れるところからパフォーマンスを開始した。
俳優の動きとセリフを分離するという意匠で名を馳せた劇団ク・ナウカを主宰する 宮城ならではの演出である。 この声は、宮城自身が三島の小説を朗読する声なのだが、その事実に気づかぬ観客が いたとしたら、まことに異様な感動を覚えたにちがいない。
小説の大筋を知らしめるためのこの声は、パーカッショニスト・加藤訓子によって 引き継がれるが、宮城のとはあまりにも対照的な少女めいた加藤の声が奇妙な異化効果を 生じるなかで、ソプラノ歌手・サラ・レオナルドの非分節的な叫びにも似た歌声が空間を つんざく。

しかしあくまでも音の主体は音楽である。 まずジェームズ・ウッドによって作曲された電子音楽が全体を統合し、 そのエレクトロニクス・サウンドに、時に協和し、時に競合し、そして時にそれを 圧倒するように、加藤のパーカッションが鳴り響く。和太鼓、ウォーター・ドラム、 梵鐘、木魚、マリンバ等々、実に多くの打楽器を自在に打ち鳴らすこの稀代の パーカッショニストこそ舞台の中心的存在であるにちがいない。
しかも彼女は、江口が志賀寺上人とその「恋」の相手である京極の御息所とを 微妙に演じ分けるのに感応するかのように、ときとしてみずから両者に成りおおせて みせさえする。
パフォーマンスの全体は、それゆえ三島の短篇小説の結構とほぼ重なり合うように 進行しながら、そのドラマに対応するような音楽的構成を見せると同時に、他方で 音楽に満ちみちたあの「巨大な観念世界」としての浄土そのものを再現しようとする。 物語の時間的進行と非時間的な浄土の再現という、本来相容れないはずの二つの次元を 矛盾なく存立させなければならぬところが、このパフォーマンスの最大の眼目であって、 その危うい束の間の時を少しでも感じさせたなら、すべては報われるはずである。

その点で、三島の小説の朗読はもう少し短くしてもいいのではないかとの印象を受けた。 物語をまったく知らぬ観客は、少なくとも日本人のなかにはそれほどいないはずで、 言葉が説明的であればあるほど音楽と背馳するように思われるからである。 加藤訓子のパーカッションを、なによりも聞きたい。もっと音に身を委ねたい。 むしろ小説の筋を忘れるにいたるほどに。
だから彼女が最後に純粋にパーカッションの独演に打ち興じたときには救われる思いがした。 いや、というより、すべてはこの演奏に帰着すべく仕組まれていたのだろう。 パフォーマンスの全体が短く感じられるほどに、われわれは楽興の時に身を委ねていた のである。

谷川 渥(美学)

Photo : Yoshiyuki Miyagitani