「身体の映像化、映像の身体化
−オリジナル映像作品『動・響・光』をめぐって−


愛知芸術文化センターが世に誇ることが出来る事業の一つに、愛知県文化情報センターの企画 によるオリジナル映像作品の制作がある。
「第9回アートフィルム・フェスティバル」でプレミエ上映された槌橋雅博監督 『動・響・光 (UGOKI・HIBIKI・HIKARI)』 は、すでにその第13作目となる。 一貫してテーマを〈身体〉に置くが、その解釈は自由。 今回の最新作に至るまで、それぞれ独自の視点と手法により、多様な作品が創出されて来た。

『動・響・光』は上映時間3時間の長編ビデオ(カラー・モノクローム併用)作品であり、 ドキュメンタリーとフィクションの交配的な手法が取られている。 観る者に現実の世界を体感させると共に、想念の翼によって拡大される領域をも含めた 人間存在の場を実感させたい、という槌橋監督の新しい身体論的な意図をまずそこに 読み取ることが出来よう。

この作品は4つのシークエンスから成り立っている。
槌橋監督の言葉を借りながら、それぞれの内容を要約すると、
(1)非在の眼睛(がんせい):
縄文文化を継承する架空民族のシャーマンが「非在のなかりし神」「存在の根源たるつくりし神」「生命の父母たる岩鬼神」「人間の原型たる祖人」「人間と融合する光神」を称える舞踏を大小の岩石が散在する原初的な台地で踊る。眼睛とは瞳あるいは眼の玉の別称。形なきものを透視する聖なる眼という意味をも含むものだろう。
(2)犬と垣根と水溜りの太陽:
謂れ無い自己不在感をかかえた若い女性が山中の森に住む脱俗的な老人を訪ね、身体をめぐる様々な寓話を聴くシークエンス。ことに犬に変身した時の体験や、壁と垣根の差を説く障壁論、太陽複数説と水溜りに落ちた太陽を救い出そうとして失った左手への思い、などが超現実的であるにもかかわらず、現実をチクリと刺す落語調で語られる。
(3)午前五時の静寂(しじま):
槌橋監督の故郷・神戸市長田区特有の地域文化の様々な相貌と阪神淡路大震災の激甚災害地における人間模様を、中村優子が同地出身の女優という設定で語る一連の映像。
(4)生成の無垢:
作品の随所に挿入される生命へのひそやかな讃仰詩の朗読、セザンヌ、ゴッホ、ブリューゲル、ブレイク、レオナルド(解剖図)などの作品映像断片。「美における身体性」を明確化するために選択されたものと言う。
以上の4つのシークエンスはそれぞれ分節的に処理された上で、順次性を保ちながら 混ぜ合わされることになる。 ただし、その編集とつなぎ合わせの作業は互いの映像ピースの響き合いを綿密に測りつつ 行なわれたのだろう。

例えば、自分捜しの若い女性と老人の壁談議の間に挿入される、 神戸・長田地区の“壁ちゃん”と呼ぶ野良猫のエピソード映像、古代の民俗信仰につながる 長田神社追儺式の鬼たちの姿と縄文文化を思わせる岩鬼神の舞踏映像との接続、 多宗教融和地帯の神戸の状況に、老人が犬化していた時代に出会ったメリケン犬の運命に ついての談話シーンが続くなど、あたかも連句のように前の映像の匂いを残しながら イメージが飛躍する面白さを味わうことが出来る。要するに、この4つのシークエンスは 絡み合い、掏い上げられながら、複合的な身体性の映像化を果たすとともに、 逆に映像作品そのものの身体化にも成功しているところに注目させられるのだ。

ここにもう一度『動・響・光』というタイトルを振り返ってみると、この三要素は共に 時間性を帯びつつ、空間の知覚、聴覚、視覚という身体の基本的な感性をめざめさせる 現象であり、一方、映像作品が記録し、あるいは表出する基本要素であるとも言える。 とすれば、このタイトルは、作品内容のエッセンスを抽出したキーワードとも言えるだろう。
この作品は神鏡にも水溜りにも分け隔てなく光を溢れさせて太陽が沈んでゆく静謐な シーンを以って終結に向う。そこに神と人、魂と身体の合一と共に、すべての要素と シークエンスの収束、統合を見届けて我に返ると、上映時間の実質3時間はまたたく間に 過ぎていた。

馬場駿吉(俳人)



<作品データ>

『動・響・光 ( UGOKI・HIBIKI・HIKARI ) 』
企画 :愛知芸術文化センター
制作 :愛知県文化情報センター
製作 :アート・オブ・ウイズダム
監督 :槌橋雅博
美術 :出口貴子
出演 : 中江絵美、中村優子、桂雀三郎、竹村啓、
山下葉子 他

2004 / video / 177min / Color & Monochrome / 1:1.37 / Stereo
第9回アートフィルム・フェスティバル
《第一期》(2004年11月26日〜28日)にてプレミエ上映